所有の文明を存在の文明へ――グランド・リセットの機(とき)

服部英二

                       国連教育科学文化機関事務局長顧問


 「地球の砂漠化は人間精神の砂漠化が招来した」と、私は恒に主張しています。

過去の300年間、人類は母なる大地を覆っていた森の70パーセントを伐採し、大気と海を汚染し、温暖化ガスを排出し続け、生態系を破壊してきました。毎日120種の生物種が姿を消しています。しかもそのスピードが年々加速しています。専門家は、地上の動物の総数の60パーセントは家畜、36パーセントが人間、野生動物の数は実に4パーセントに過ぎない、と言います。 昨今全地球を襲った未曾有の自然災害、旱魃による消えない山火事、大津波、巨大ハリケーン、大洪水を目の当たりにするとき、想いだすのはフランスの哲学者ミシェル・セールが15年前「地球との和解」というUNESCOのシンポジウムで発した言葉です。

 「人類に切り刻まれた自然は、いま沈黙の内に再結集し、人類に報復しようとしている。」

本日は、地球と人類をこのような危機に導いた最大の事件を、比較文明学の視点から解明したいと思います。

 それは「自然との離婚」という事件でした。

 17世紀、近代科学の父と称されたデカルトはその書『方法叙説』の中で「人間は自然の主人であり所有者である」と述べましたが、まさにそれがこの惑星の現実の姿となりました。

人間が神に代ったのです。その昔エデンの園に植えられた知恵の樹の下で、アダムとイヴに「その実を食すればおまえは神の如くになるであろう」と言った蛇は、人を欺いたのではなく、真実を告げていたのでした。

 科学革命は西ヨーロッパという一地域に起こりますが、それが誘発した産業革命を経て瞬く間に世界を席巻する文明となりました。日本もまた「文明開化・富国強兵」を叫んで同じ道を進み、やがて20世紀という戦争の世紀に突入します。

 デカルトの目は神の目です。地球すなわち大自然を外から見ています。自然はもはや客体すなわち対象なのです。自分はその中にいません。「我思う、故に我あり」のCOGITOは超越体なのです。しかもその中に感性や霊性は入っていません。考えるのは理性のみです。全体から一部を抜き出すことを抽象Abstractionと言いますが、デカルトの「我」は人間の抽象化であり、全人性の疎外Alienationです。

 すべてを客体化し、それを外から観察する学問の姿勢を「科学」と言います。

 では、そのような科学の爆発が何故ヨーロッパという、それまではむしろアジアに比して後塵を拝していた一地域だけに起こったのか、を考えましょう。

 それにはヨーロッパの生い立ちを見なければなりません。


これがヨーロッパの姿です。ギリシャ的理性とヘブライ・キリスト教的信仰の融合です。

それは実は簡単なことではありませんでした。「理」と「不条理」という相入れないものの融合だったからです。しかし4世紀、ローマ帝国によるキリスト教の公認によって、砂漠の神は緑のヨーロッパに導入されました。アウグスティヌス等を経て、やがてキリスト教の教義をギリシャ的理性で説くスコラ哲学という学門が生まれ、それは13世紀、パリのソルボンヌという神学校で、トマス・アキナスがまとめた『神学大全』によって頂点に達します。その頃ラテン語となったアリストテレスの『自然学』と『形而上学』を援用したそれは「黄金の知」と呼ばれ、西欧思想の座標軸となりました。

 しかし本来水と油のように相容れないものである「理」と「信」の矛盾は、やがて再分裂を始め、15から16世紀、ギリシャ的理性はイタリアのルネサンスに、ヘブライ的信はルター・カルヴァンの宗教改革に姿を変えて行くのです。科学革命・産業革命・情報革命はルネサンスの延長上にあります。

 ここからが本日の要点です。ヨーロッパではこの分裂した二つの間に「真理」を巡る壮絶な戦いがあったということです。それはすでに15世紀頃から頭をもたげ始めた自然科学とキリスト教神学の戦いでした。ヨーロッパはその戦いを「二重真理」というもので切り抜けてきたのです。

つまり「知識に関わる真理」は科学、「倫理に関わる真理」は教会、という「棲み分け」です。私が注意したいのは、この棲み分けにより科学は「善悪に関する免罪符」を得た、と言うことです。科学はValue free〔価値を問わず〕なのです。

ちなみに東洋にはこの棲み分けがありません。従って真理は恒に倫理を含むものでした。

17世紀、この真理を巡る戦いはついに科学の勝利で終わりを告げます。18世紀のフランス革命は、王権を倒しただけでなく、教会を破壊したのでした。

真理を巡るこの長い戦いに勝利した科学は、まるで発車台から打ち上げられたロケットの様に上昇するのですが、問題は「倫理は科学の分野ではない」という棲み分けの姿勢を踏襲したことです。Value free善悪を問わず、という姿勢です。後の生物化学兵器、はては原爆といった大量破壊兵器の出現はこの姿勢に由来する、と私は信じて疑いません。

「自然との離婚」すなわち自然の客体化という大事件が引き起こしたもう一つの事態は、人間の価値が「存在to be」から「所有to have」に変異したことです。持つとは自己の外にあるものを自己に帰属させることです。財産を持つ、地位を持つ、領土を持つ、権力を持つ、すべて自己の外のものだからこそ持つのです。人間はその人格・品性ではなくその持ち物によって評価されるようになりました。そして人間の所有の欲望には際限がありません。欲望は更なる所有の欲望を生み出します。植民地主義は所有の文明の最たるものでした。

しかし哲学者ガブリエル・マルセルがいみじくも指摘したように、「存在Etreと所有Avoirは反比例の関係にある」のです。自然との離婚以来、「人間はその存在の半分を失った」(オーギュスタン・ベルク)のでした。その空白感を埋めるものが所有であったのです。

20世紀、われわれは所有の文明の戦い、その悲惨な結末を経験しました。それなのに人間は市場原理主義による巨大経済、地下資源の簒奪、宇宙開発等々、極大の所有を求める姿勢を変えていません。

最近の新型コロナウイルスの脅威は、冒頭に引いたミシェル・セールの言葉、大自然による人類への復讐の警告を想いださせるものです。極大を求めるものは極小のものから復讐を受ける。われわれは、コロナ禍の苦しみの中で、それを文明転換の天機と捉えるべきです。

人類史のたった2万分の1というこの一瞬の時間帯に起こった「自然との離婚」による人間の全体性の消失、人間疎外こそが異常事態なのだと気づくべきです。

いまわれわれは、生成する大自然(ピュシス)の主人でも所有者でもなく、その一員であることを再認識し、近代文明を形成してきた「所有の文明」から、人間本来の「存在の文明」へとグランド・リセットを行う機会を天から与えられているのです。


 終わりに中村桂子さんの生命誌の扇をご覧にいれます。38億年のいのちの広がりです。人間は自然の外にいません。すべての生物の中に居ます。すべての生物が私たちです。「私は私たちの中に居る」のです。

 あのエデンの園には、「知恵の樹」だけではなく、もう一つ大切な樹が植えてありました。「生命の樹」です。人類は今、この忘れられた樹の方を振り返り、歩み寄らねばならない。この振り返りを私は「文明のグランド・リセット」と呼びたいのです。

ありがとうございました。


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