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われわれはどこへ行くのか?

松井孝典著『われわれはどこへ行くのか?』
(ちくまプリマー新書、2007年、142頁、700円)
平田 俊博

「われわれはどこへ行くのか?」――という本書の題名は、ポーランドのノーベル賞作家シェンキェーヴィチの小説『クオ・ヴァディス』を連想させる。
クオ・ヴァディスとはラテン語で、「あなたはどこへ行くのですか?」を意味する。キリスト教徒を弾圧する暴虐皇帝ネロの迫害を恐れて、劫火に焼かれた首都 ローマから脱出してきたばかりの使徒シモン・ペテロが、アッピア街道で突如、朝霧の中に浮かんだ主イエスの幻を見て叫んだ言葉である。イエスは答えた。 「あなたが私の子らを見捨てるのなら、私はローマへ行き、もう一度十字架にかかろう。」 すると雷に撃たれたかのように身動ぎもできず、ペテロは大地にひ れ伏してしまった。やがて身を起こすと、体の向きを変えた。お供の少年が尋ねる。「クオ・ヴァディス?」 小さく「ローマ」とペテロは呟いて、いま来た道 を引き返すのだった。そして直ちに捕らえられ、逆さ十字架の刑に処せられる。
ほぼ二千年前の出来事で、刑場の跡地が今は聖ペテロ寺院と呼ばれる。使徒ペテロの精神を継承する歴代のローマ教皇が居住してきた、キリスト教カトリックの総本山である。
「クオ・ヴァディス?」は元々は聖書にある表現で(『ヨハネ福音書』第13章)、十字架に懸けられて受難する覚悟を決めたイエスが、弟子たちに別れを告げ 立ち去ろうとした時に、ペテロがイエスに投げかけた言葉であった。いずれにせよ、問う者自らに跳ね返る殉教の言葉である。皇帝が支配する物質の世界に屈服 しない、精神の世界を切り開く言葉なのである。
だが、そうした期待を読者が松井孝典に抱くとすれば、肩透かしを喰うほかない。なるほど、「われわれはどこへ行くのか?」という書名は、ある意味で思わせ 振りと言えなくはない。例えば、同名の人気漫画『クオ・ヴァディス』(幻冬舎)がある。こちらは「クオ・ヴァディス」を何故か「我々は何処へ行くのか」と 訳したりしているのだが、科学の意義と人類の未来を問う点では松井と軌を一にしている。
以下のような表現が若者の心を掴むのであろうか。「中途半端な時代だな」「人類が…何らかの危機感を感じながらもその実体を把握できず」「解決策も見出せ ない」「そしてずるずると終末に向かう…」「遺伝子(DNA)操作を繰り返し無限の新陳代謝を可能にした不老の肉体…」「人類の滅亡を救うべく研究の継続 のために人工的に造り出された命だ」「人と呼べるのか…それを」「私達は…いったい何処に行くんだろうな(クオ・ヴァディス)」
しかしながら、松井自身は徹底して科学者であろうとする。もっと正確に表現すれば、「自然科学者」でありたい。
本書「「われわれはどこへ行くのか?」の掉尾「あとがきにかえて」で、松井は科学と非科学を区別している。二元論と要素還元主義に基づいて、外界を脳の中 の内部モデルに投影するのが科学であり、それが松井の言う「わかる」ことである。これに引き換え、宗教や人文科学、社会科学は、二元論と要素還元主義とい う科学の基本ルールに完全には基づかないので、厳密な意味では「わかる」に決して至りえない。精々で「納得する」にすぎない。すなわち、「自分の脳の中 で、自分的に問題が整理でき」ているだけである。
松井によれば「二元論」とは、「脳の外部の世界を考える際、それを考えている自分(脳)とは何なのかという問題をとりあえずは考えないこととして、外部の 世界を考えるということ」である。また「要素還元主義」とは、「考える対象をより細かくとることで、考えるべき問題をより具体化して考えるということ」で ある。 さて、それでは、「われわれはどこへ行くのか?」という問いに対して、科学者たる松井孝典はどう答えるのか。
本書に立ち入るに先立ち、まず前もって彼の前著『地球倫理へ』(21世紀問題群ブックス6、岩波書店、1995年))に目を通しておきたい。そこで彼は次の通り述べている。
「現在の人間圏にはもはや行くべきニューフロンティアがない。……我々は今後新たなるニューフロンティアを自らつくり出す必要がある。それは宇宙なのか、 地下なのか、海中なのか、ということになろうが、いずれにせよ、人々の生存可能空間を創造しなくてはならない。  例えば火星を緑の惑星に変え、そこに住むことがさまざまな角度から検討されている。火星への移住は、その重力環境から考えると移住後何世代かを経て、新 たなる形態の人類を生み出す可能性がある。……そのような試みを通じて、人間とは何か、地球システムのなかでの安定な人間圏とは何か、という議論が観念的 にではなく、現実的に論じられる。むしろそのことがもっとも重要な点といえよう。」(『地球倫理へ』191-192頁)。

要するに松井は、われわれ人間は新しい生存環境であるニューフロンティアを自ら造り出して、そこへ行くしかない、と言う。そのためには「早急に」、「地球 システムのなかで安定な人間圏」を設計し、「人間圏の内部システムを新たにつくり直さ」なければならない(同181頁)。けれども、「そのような設計図を 描くうえでもっとも重要なのは、世界の人口をどのように制御しうるかということになる。じつはこの点に関して科学はまだほとんどその手がかりをつかんでい ない」(同182頁)。このように松井は、科学の現状を告発せざるをえない。
とは言え、数億年という地質学的なタイムスケールでは、いずれ人間圏も生物圏も……何もかも、確実に消滅する(同195頁)ことを科学者の松井は「わかって」いる。その上で彼は、本書を新たに世に問おうとしている。その内容は以下の通りである。

第一章 われわれはどこから来たのか

  • われわれとは何か
  • 生物学的な意味でのわれわれ
  • われわれは「地球システム」の中に「人間圈」をつくって生きている
  • 「地球学的人間論」でなければ文明も環境も語れない
  • 「人間圈をつくって生きているわれわれとは何か」を問わなければならない
  • 部分ではなく、全体を見なければ意味がない
  • 地球を外から見る
  • 地球システムという発想
  • 地球システムの「構成要素」
  • 「駆動力」が構成要素に「関係性」を生む

第二章 われわれはどこへ行くのか

  • 人間圈と生物圏の違い
  • 農耕牧畜をはじめたときに「人間圈」はできた
  • 文明とは、「人間圈」をつくって生きる生き方
  • 人間圈もまたシステムである
  • 江戸時代のフロー依存型人間圈
  • 明治以降のストック依存型人間圈
  • 現在の人間圈では地球の時間が10万倍の速さで進む
  • 時間をゆっくりさせるには
  • 地球も自分も、地球のものであるということ
  • 「レンタルの思想」で生きる
  • 何のために豊かになるのか
  • 勝ち組・負け組という空疎な発想
  • 経済的な価値観では人間圈は安定に保てない
  • 五億年後、地球から生物圏は消える
  • 人間圈は今世紀半ばに破綻する

第三章 地球生命とアストロバイオロジー

  • 「生命とは何か」は答えられない
  • 地球上の生命とは何か
  • アストロバイオロジー
  • 火星――過去に地球と似た地表環境の惑星
  • 火星移住計画は実現可能か
  • エウロパ――氷の下に海が広がる衛星
  • タイタン――メタンの雲が湧き、メタンの雨が降る衛星
  • 生物学が普遍的なものになるには
  • われわれの宇宙は特殊である
  • この宇宙は宇宙人に満ちあふれた宇宙か?
  • 生物学では宇宙人を議論できない

第四章 地球環境の歴史

  • 太陽は年々明るくなっている
  • 「暗い太陽のパラドックス」が生まれる理由
  • 地球システムは太陽光度の変化に応答する
  • 文明は石灰岩と大理石を使う
  • 大気中のCO2量を調節して気温を一定に保つ
  • 今の環境問題は、地球システムの理解なくして考察できない
  • 地球のことを知らない人が語る地球環境問題
  • 汚染が悪なら地球の歴史は悪の歴史である

第五章 われわれの宇宙はどうやって生まれたか

  • 太陽系はどうやって生まれたか
  • 地球が地球になるまで
  • 地球生命はいつから存在したか
  • 分化――歴史の本質
  • 生命はどのように誕生したか
  • 銀河系はどうやって生まれたのか
  • 宇宙はどうやって生まれたのか
  • 宇宙の元素組成はどのように作られたか
  • ビッグバン以前は何か?

あとがきにかえて――「わかる」とはどういうことか

  • 考えても意味のないこと
  • 「わかる」と「納得する」の違い

さて、松井は本書で、「われわれの文明が百年もつかどうかという瀬戸際なのに、一万年も十万年も待てませんから、人類の火星移住の現実味は薄い」(77頁)と断言している。「人間圏は今世紀半ばに破綻する」(66頁)と、わかっているのである。
そもそも地球環境問題にとりくむというのは、「人間圏と、地球システムとの関係を明らかにする」(106頁)ことなのに、この簡明な科学的知識を共有でき る同僚をもてないのが、科学者松井孝典の最大の悲劇である。ただ「納得している」だけなのに、したり顔で「わか」ったような顔つきで近づいてくる非科学者 の多さに途惑う昨今であろうか。