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現代社会の倫理を考える

加藤尚武著『現代社会の倫理を考える』
(『現代人の倫理学』第10巻)
(丸善株式会社、2006年、174頁、1995円)
後藤敏彦

ヘーゲル大哲学者加藤尚武氏の著書の書評をなどというとてつもない難題を割り振られて、途方にくれた。意を決して、やさしそうなものを捜し、著者と立花隆 氏が監修する全17巻の一般人向けにかかれた倫理全集のうち加藤尚武氏自身が書かれた表題の書を選んだ。とはいえ書評はおこがましいので、読みながら考え たことを書くことでご容赦賜りたい。 一般の日本人が倫理のことを考えていないわけではないと思う。その証拠に本屋には新渡戸稲造の『武士道』がここ何年 も山積みになっている。ということは、少なくも売れているということである。しかし、それだけではよいのであろうか。「グローバリゼーションの時代に、ど のような教養が共有されるべきかが問われている。」と述べられている。倫理は変化しているのである。もっと徳目論が語られ、議論されねばならないことが重 要だと思うが、どう実践していくか私にも課題である。

まえがき

1970年代以前と以後という「二つの時間」という考えを述べられている。先生より少し若いが、ほぼ同時代を生きてきたものとして実感できる考えで ある。しかし、「単純に無限に増大する可能性はないという「成長の限界」が有力な見方となっている」と述べられていることについては異論がある。問題は、 日本人、とくに経済界のトップ層の殆どは、そうは考えていない、というよりは思考停止しているといった状況にあるということである。景気回復、経済活性化 の要求ばかりで、しかも求める政策は20世紀型のものばかりである。「円満な世代交代サイクル------が狂い始めている」というのは自身も含めて切実 な課題と感じている。
第1章 家族の倫理 「健全な世代交代の構造を維持することが、実は社会体制の存在理由なのではないだろうか」という問いかけと、「幸福の方程式の崩壊現象が起こっている」と いうことには同感である。しかし、新しい家族像についての価値観の変更は進んでいないと思う。政治家が「家族が基本」というようなことを叫ぶ中で、すこし でも否定的意見を述べれば表向きの議論では大方の賛同は得られにくい。しかし、若年層の実質的失業者や高齢化に伴う一人住まい老人の増加でいずれドラス ティックに変わらざるを得ないと思う。

第2章 教育の倫理

理科アタマと文科アタマというのは実にナンセンスな議論だと思う。筆者の大学受験のときは、文科、理科とも全8科目の問題は同じで重み付けもなにも なかった。高校3年の12月まで文Ⅰを考えていたが、正月におもうところあって理Ⅰに換えようと考え担任に相談したところ、「今さら変えるな」といわれて 思いとどまったことを思い出した。さしたる深い思いでもなかったのであろうから簡単に翻意してしまったが、考えてみれば変えても問題はなかったはずであっ た。翌年の1961年からは、問題は同じでも理系と文系で20%(?)の重み付けをしたらしいが、このあたりが教育制度での変更の始まりのようである。そ れまでの試験制度ではどちらの差も無かったのである。その意味で、「教育は能力を奪う」という論旨は明快で、すばらしい言い方を教えてもらった。ところで 制度変更はどんな理由で始められたのであろうか。大学が安直な企業戦士養成機関ということに位置付けなおされたのであろうか。とはいうものの、本人の嗜 好、得意、不得意はあるので究極的には理系向きと文系向きのアタマはあるのかもしれないとも思うが、教育制度に直結させるのが正しいわけではないだろうと 思う。もうひとつ、筆者の時代はLiberal Artsを学ぶ期間として曲がりなりにも2年間の教養学部があったが、いまはどうなっているのであろうか。私立、公立のいくつかの大学での非常勤講師の経 験はあるが、教養という形できっちりカリキュラムが組まれているかについては不分明ではあるが、無いように感じている。いずれにせよ、高等教育のあり方を 根本的に見直す時期のようである。高等教育だけでなく、初中等教育についても問題がある。首相が「戦後レジームからの脱却」という何をいっているのか分か らない主張をし、その目玉の一つが教育改革のようである。「愛国心を教える」という戦前回帰(?)のようなアナクロニズムでは話にならない。子どもや若者 がやる気になる社会の方向性を示すことが大人の責任と思う。

第3章 記憶の倫理

「思い出を風化させてはならない」という言葉を聞くたびに空々しい思いがする、と述べられている。同じようにも思うが、過去のあやまちを曖昧なままして総括せず風化させていく日本文化?も他の文化との関わりではやはり見直しが必要かもしれないと感じた。
「倫理といえば、反省という言葉との結びつきが深い。」と述べられている。形ばかりの反省ばかりしているわが身を反省する次第である。

第4章 身体の倫理

手の記憶について書かれた部分は身につまされる。「学ぶ」の語源は「まねる」だときいたことがあるが真偽のほどは知らない。「まねる」にはまず「ま ねる」形が明確なほどまねやすい。だからこそ武道やスポーツに限らず日本の習い事の多くは形から入る、修・破・離である。「トレーニングには、倫理性の基 本となる型が含まれている」と述べられている。そうなんだ、倫理にもトレーニングがいるのだ。

第5章 自然の倫理

「予見された危険は回避できるという合理主義的なオプティミズムもある」と述べられている。温暖化は回避できるというオプティミズムに乗っからない と若者がやる気にはならないと思う。「もっとも根源的な自己目的は、生命の歴史が人間に刻みこんだ自然への愛である。」というのは正しいと思うが、それが 崩れてしまってきている。 愛国心の教育より、田舎生活の義務教育化を考えたほうがよさそうである。

第6章 教養の倫理

「外交が、力を背景とした現実主義的なものとなるにつれて、外交から古典主義的教養が消えていった。」と述べられた。この場合の力というのは軍事力 だけてなく経済力も含むのであろう。「グローバリゼーションの時代に、どのような教養が共有されるべきかが問われている。」と述べられている。もっと徳目 論が語られ、議論されねばならないことを意味していると思った。フリーターの生き方を皮肉っぽくアリストテレスや荘子の哲学と対比されているが、フリー ターは失われた90年代に日本社会がつくりだしたもので、自発的な選択とは思えない。フリーターやニートについては社会の方を問題にすべきと考えている。 「現代で教養が崩壊しつつあることの背景には、自己の内なる未知のものへの確信を若者が失っているという精神的な態度がある。」と述べられている。これが 正しいとすると、何故という問いにつながるが、答えは何であろうか。

第7章 情報の倫理

「安全が情報に依存している。これが現代生活の特徴である。」、「情報に不安を感じたとき、私たちは別の情報で確かめようとする。」とある。これが 現代の情報過多時代の最大の課題である。「信頼の喪失は必ず自由の喪失という結果を生み出す。」けだし名言である。監視カメラの野放図な設置はまさにこの ことである。「品位で人を判断する」も、多くの詐欺事件では 品位も装われるのであてにならない。「情報発信の責任」でのべられていることについては何か 違和感がある。情報化社会ではソフトは工業化社会の工業製品と同じものと思う。工業化社会では、科学技術が倫理と完全に断ち切られていたことが問題なので あって、情報化社会では科学技術と倫理をデカルト以前のように結び付けることが必要だと思う。そのときの倫理は何であろうか。言論における「市場の失敗」 はどうしたら克服可能であろうか。「電子社会は直接民主主義をもたらすか」という問題提起には目が開かれた思いをした。

第8章 日本文化の倫理

「原理がなくて様式だけがある。」ということについては、よくいわれていることでもあるし異論はない。「(これまでの)進歩と成長の時代への対処は まだまだ不十分である」ということについても同感である。しかし、社会主義が崩壊し「資本主義は未来に対するオプションの一つを失った」ことが、「日本的 様式主義の世界化を遅らせるのであれば、歓迎してもいい歴史の足踏みである。」ということには異論がある。「日本人は自己を持たないままに、勤勉であり、 その仕事は驚くほど能率的なのだ。この無目的、無自覚こそポスト歴史の特徴なのである」、ということが論として正しいとしても、現実に対しては間違いと思 う。なぜならば、今の延長線(BAU, Business as usual)の上では「ポスト歴史は来ない」のである。地球温暖化は人間が引き起こしたものということはハイリゲンダムのG8で政治として確定したのであ る。ここ10~15年での社会・経済システムの大変革、サステナビリティ革命を成功させねば人類は絶滅の危機に瀕する、ということが世界の共通認識となっ たのである。「明日は今日の続き。嵐が来れば我慢していればまた元に戻る。」といった日本人の感覚ではポスト歴史は来ないのである。現在、我々は、日本の 歴史の節目節目にあるように、従来の様式を破壊し、気候変動を克服しうるような「新しい様式」を作り出さねばならないクリティカル・ポイントにいるのであ る、と考えている。

第9章 死を迎える倫理

来世受容型と来世否定型とあるとのこと。私はどちらを選ぼうか、まだ覚悟ができていない。著者は来世を否定し、死から逆算して、つまりBack castingして人生設計をされている。見事なものだと敬服している。小生は今のままだと酔生夢死か。 4つの教訓のうち、守れそうなのは「最善の中の最善を狙うな、最悪の中の最悪を避けよ」くらいかもしれない。

第10章 幸福の倫理

「生き甲斐」の背景に、「生きることが努力であり、困難をのりきることであるという気持ち」がある。突き詰めると自発的自己犠牲の対象である。と述 べられているが、何か隔靴掻痒の感がする。「生きていることが自覚的もしくは無自覚的に向けられている目的である」というほうが、自分の感覚や第8章にあ る日本文化の様式主義から考えてもピッタリくる。「究極目的となる内的な価値(intrinsic value)は快楽である」というのが快楽主義である、としてさまざまな哲学者の快楽についての考え方を紹介されている。面白かったが、私にはとても探求 できない分野だ。自分にあったテーマで探求を続け、快楽を最大化しよう。「清貧論の罠」は、あまり考えたことはなかったので面白かった。私自身は物質的に 貧しくはないが、ものすごく豊かでもない、と思う。でも、物質的豊かさを求めようとは必ずしも思っていないし、そのような動きもしてはいないが、精神的豊 かさを求めて活動している、と自己認識している。自己認識が正しいかどうかはわからないし、清貧論的に言えば、私は物質的に豊かな者なのかもしれない。清 貧論「ブーム」は、私のような者が支えたのであろう。

あとがき

「現代社会の倫理を考える」シリーズは、現代社会の中で倫理的なものの変化の姿を明確にすることを目指している、とある。一般には倫理が変化すると いうことも認識されていないであろう。たしかに、意図はわかるので、全巻注文した。しかし、仮に私が「分かった」として啓蒙主義的に人に説いたら、まず毛 嫌いされるのがオチであろう。しかし、大激変の時代だからこそ「人と人とのかかわりのことわり」すなわち倫理が重要と思う。どのように実践、実現していく か、私の課題である。「マルクス主義的ではない、自由主義的市場経済という体制のなかで、公共的なものをどのようにして確立するかが改めて問われてい る。」と述べられている。明治以来の「公益官僚独占支配体制」という日本システムの変革を図る動きの中で何か実現してゆきたいと考えている。  以上