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世俗化と宗教教育

世俗化と宗教教育
清水正之

今あらためて宗教教育が問われることの背景には、社会的な諸事象が関係している。それを倫理教育という視点からみるなら、今が近代においてなんどか 到来した道徳の空白期ともいうべき時期であることと関わろう。同時に、空白は今に始まったことでなく、戦後の、あるいはむしろ日本近代の初頭からの営々と した歴史のなかに芽生えていたものが、節目というかたちであらためて今の私たちに顕在化しているのかもしれない。営々とした歴史とは、たとえば世俗化(無 宗教化)とよぶのが適切な事態かもしれないと、考えている。そのことが及ぼす問題もまた多々ある。たとえばそれは無邪気な宗教的無知から(意識的な反宗教 の立場は否定するつもりはないが)、異質な他者にいわれなき偏見ともつことにつながるだろうし、また、他方で、戦前の国家神道的な残滓に無自覚に取り込ま れているかもしれないこと、あるいは、自己の空白感を人一倍感じ取る感性をもつものを、問題なしとしない別種の宗教性(たとえばスピリチュアルな世界への 関心のひめやかな広がり)にいざなう深因ともなっているようにみえること等である。
そこからどのような方向で道を開いていくか、問題となろう。先般のオーム真理教の事件等を考慮もしたのであろうが、私が勤務する東京理科大学工学部では一 般科目『世界の宗教』がおかれて20年近くが経過する。科目設置の目的は、世界の諸文化の背景にある宗教的価値を理解することと、それらへの敬意を涵養す るという趣旨であるが、それは工学部という学部の独自性にも関わること、つまり、将来の技術者としての国際的交流、あるいは技術移転の際にもつべき当然の 教養として、ということでありひるがえって、日頃自らの宗教的環境、宗教的情操に気づかないものに、そうしたことを考える機会を与える、という意義付けも ある。シラバス上は、三大宗教を、その歴史・教義・派生する文化的特徴(文学や建築物等)をメインに扱い、インド・中国をくわえて、最後に日本の宗教事情 を扱うことを基本として、そのなかで、国際的情勢と宗教の関係など、時事的歴史的な事象との関連などヴィヴィッドな話題にもふれている。
そこでのささやかな体験からまずいえることは、受講生の高い関心と宗教への忌避感との併存が特徴だといえることだろう。理科系工学部という背景もあり、宗 教を科学的無知とみなすとともに(例年8割強)、宗教的なるものの意味・超越的なにかの存在には肯定的である(7割強)という落差があり、また日本の宗教 的現実(宗教に帰属するものが多様に存在すること)への知識の不足など、現代日本の宗教的なものへの態度のよきモデルともいえる。そしてそれは、あえて引 きのばせば日本自体や世界の、内部的な多様性への閉じた態度につらなる様に見える。

問題は、①科学と宗教が対立的であるという一面的な歴史・現実理解、と②日本は無宗教の国である、という通俗的感覚を対自化することがなかなかむず かしく、ために一層現実を見るまなざしにバイアスがかかる、という状況といえようか。学生の出身が、公立高校であるものが8割をしめ、中高一貫校におお い、なんらかの宗教教育を受けてきたものが比較的少数であることも、そういた大勢と無縁ではないだろう。

「公教育と宗教教育」をめぐる教育基本法を結び目とする法規的な拘束やそれに付随する諸問題があり、他方で日本の宗教という現実へのぬぐいがたいス テレオタイプ的見方、たとえば研究者のあいだでの「シンクレティズム」という規定への安住などがそこに関連する。日本の倫理思想史研究に従事するものとし ても、問題とするべきことは多いと考えている。

ここでは、倫理思想史研究に従事するものとしては、戦後の世俗化(第三の世俗化、こころみにそう名付けるが、江戸期を第一期の世俗化、明治の近代化 から敗戦までを第二期の世俗化と呼んでおく)ともいうべきものの質とその乗り越えという道を考えることで、今回のワークショップの課題にささやかながら問 題提起をしてみたい。より問題をほりさげることは、戦後史の周到な検討が必要とおもうが、ワークショップという創造的かつ仮設的な場であることを考慮し、 個人的な視点から、そのことを見ておきたい。
論のはじめに、1945年の敗戦の直前に期せずして書かれた二つの文書を引くこととする。

まずは柳田国男の『先祖の話』である。柳田の『先祖の話』は、太平洋戦争末期の1945年か4月から5月にかけて一気に書き上げられたという(出版 は戦後の1946年である)。「超非常時局」に「連日の警報の下」敗戦を予期しながらかかれたのである。柳田の関心は「ご先祖のたましい」という問題に集 中する。戦争という日本の未曾有の運命の中で、突如人々の人生の表層にあらわれてきたものがあるという。「かつては常人が畏れていた死後の世界、霊魂はあ るかないかという疑問」であり、「生者のこれに対する心の奥の感じ方と考え方等々」であるという。柳田は死と死後の世界への日本人の親近性を指摘したあ と、いつものとおり論証抜きの直感的筆致で日本人の魂についての考え方を「四つほどの特に日本的なもの」として論じている。

「第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへはいかぬと思ったこと、第二には顕霊二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけでなしに、いずれか一 方のみの心ざしによって、招き招かれることが、さまで(・・それほどまでに)困難でないように思っていたこと、第三は生人の今はの時の念願が、死後は必ず 達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画をたてたのみか、さらにふたたび三たび生れ代って同じ事業を続けられるもののご とく、思った者の多かったというのが第四である。」(『先祖の話』柳田国男全集13 ちくま文庫、165-166頁)

柳田の見解は、日本の宗教史・思想史の把握に通じている。いえの祖霊、死後世界を論じながら、この書には仏教への反発がながれている。柳田はいう。氏神信 仰とは「私多き個身を棄て去って、先祖という一つの力強い霊体に融け込み、自由に家のため国の公のために、活躍し得るもの」として祭ったものである。死者 の魂は時を経るにしたがい祖霊に合流するというのが日本古来の考え方であった。それに対して仏教は、個人の「魂の祭り」を優先させ、祖霊を孤独にさせてし まったとみるのである。こうした柳田の考え方には、日本の文化の表面的な重層性の奥底に、」外来信仰に先立つ純粋は日本的古層ともいうべきものが、「千数 百年の仏教の薫染にもかかわらず」(『魂の行くえ』より)代わることなく流れてきたという独自の歴史観のもとづく。  さて、この柳田の『先祖の話』にやや先立って、やはり、戦地での戦局の悪化、本土の焦土化を目の当たりにして書かれたのが、鈴木大拙の『日本的霊性』で ある。 鈴木大拙の『日本的霊性』が1944年12月に出版されている。禅と浄土をもって日本的宗教意識の極致と見る立場に立って書かれた日本宗教の哲学的把握の 書ともいうべきものであるが,「霊性」とい概念はかならずしもわかりやすいものではない。しかしながら,同じく敗戦の予期して書かれたといわれるように, 「魂の方はむしろ具象的に響き,精神は抽象性を帯びているごとく感ずる」というような部分には,大和魂や日本精神が声高に叫ばれた時勢への密やかな批判と いうべき姿勢が込められているといえよう。「霊性」という言葉で,精神,魂の実体化を慎重に避けたかったのではないだろうか。以下は,他界=浄土について の一節である。

「真宗は念仏を主とするとか,浄土往生を教えるとか,そのほか何かかとか言うのは,真宗信仰の真髄に触れていない。真宗は,弥陀の誓願を信ずるというとこ ろに,その本拠をもっている。誓願を信ずるというは,無辺の大慈悲にすがるということである。因果を超越して業報に束縛せられず,すべてそんなものをそっ ちのけで,働きかけてくる無礙の慈悲の光の中に,この身をなげ入れるということが真宗の信仰生活であると,自分は信ずる。此の土の延長である浄土往生は, あってもよしなくてもよい。光の中に包まれているという自覚があれば,それで足りるのである。念仏はこの自覚から出るのである。念仏から自覚が出ると言う のは逆である。」(『日本的霊性』岩波文庫59頁。傍点は筆者による。))

 鈴木大拙の『日本的霊性』を柳田の『先祖の話』と比べて見るならば,両者は対蹠的である。大拙の立場を柳田に対比させながら見るなら,柳田の批判的な仏 教によること,日本文化の重層性跛行性をみすえながらも,かつそれを世界的普遍性に位置づけようとしている視点,日本の精神文化を基底文化の持続としてで はなく、宗教的「自覚」の展開としてみる視点(そして自覚をきわめて個人的なものとみなすこと),平安時代より武士の世,鎌倉時代を評価すること(鎌倉時 代に日本的霊性はめばえた・・・),などが特徴として挙げられる。だが両者ともに,かたや魂,かたや心,精神,霊性という視点から日本文化・思想を宗教性 の意味を問うという大きな見取りの中で展開していることにおいて共通するものがあり,しかしながらそれを通じて提示された宗教的「日本像」が対蹠的である 点,きわめて興味深いものがあるといえよう。

柳田の立場と鈴木の立場はことなるが、死者累々とした荒涼たる時代にその終わりを予感して書かれたものには戦後の道程を引き比べるさまざまな言葉に満ちている。

これらの書を通じて、ふたりは立場こそ違え、戦前の反省の上に立った広義の宗教教育を必須のものと考えていたといえよう。柳田はそれを、新たに国難 に身を捧げた者を初祖とした家が、数多くできるということも、もう一度この固有の生死観を振作せしめる一つの機会であるかもしれぬ。それは政治であって私 等の学問の外ではあるが、実は日本のたった一つの弱味というものが、政治家たちの学問への無関心、今なおこういう研究はよくよく閑のある人間だけに、任せ ておいてよいかのごとく、思っている人が多いことにあると思うので、思わずこんな事にまで口を出すはずみになったのである。」(同末尾209頁)と述べ、 一方大拙は、歴史の中に禅や浄土にはぐまれ個の自覚を、霊性というかたちで、戦後が引き継ぐことを期待した。個の自覚にたつ大拙はもちろんだが、柳田にし ても国家宗教的な集団性の再興をねがってはいなかったことも留意しておきたい(ちなみに柳田から引く。「宗旨制度が仏教一色にし・・・今では極力その固有 のものを抑え退け萎(なや)し薄めようとしていたのである。それにもかかわらず、現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土に相隣して止住し、除々としてこ の国の神となろうとしていることを信ずる者が、たしかに民間にはあるのである。そうして今やこの事実を、単なる風説ととしてでなく、もっと明瞭に意識しな ければならぬ時代が来ているのである。信ずると信じないとは人々の自由であるが、この事実を知るというまでは我々の役目である。」(『先祖の話』196 頁))

 それらは、倫理の再興をねがった宗教教育のかれらなりのささやかな提言でもあったといえるだろう。端的に言えば、このとき提起され、未処理のまま、ある いは抑圧されたものが、今日の事態とふかくかかわっているといえるだろう。同時にこのまさに未曾有の時期にかかれた二つの文書は、その後の宗教教育をめぐ る経緯と、またさかのぼって近代以降の宗教と教育をめぐる状況を取り結ぶ結節点とみなせるのではないかということでもある。

戦後の宗教と教育をめぐる状況については、別の論者にまかせたい。簡単にふれるなら占領軍の「人権指令」(1945・10)「神道指令」 (1945・12)以降、宗教団体法の廃止等、をとおして「教育基本法」「宗教法人法」が施行されるなどの変化の中で、たとえば教育基本法9条が、宗教的 寛容とその社会生活上の地位の尊重をうたいながらも、公教育では寛容の基礎となるべき宗教の知識そのものが教えられることが担保されなかった、ということ など、そもそも教育の場面で宗教教育をめざすにあたっての問題は多々ある。より問題となるのは、戦後の世俗化の加速が、戦前の世俗化、すなわち国家神道の 統制下での宗教を無力化するという意味での世俗化とどう違うかということでもある。戦前の世俗化を考えるとき、見落としてならないのは西村茂樹の世教・世 外教の議論とその政策化である。

日本思想史研究の生まれた近代、とくに明治近代の<再度の>世俗化とその中での「道徳」の把握において影響力をもった西村茂樹の「日本道徳論」(明 治十九年・講演)を振り返っておきたい。 彼は、「道徳を説くの教」を「世教」と「世外教」のふたつに分類し、「世教」には「支那の儒道」「欧州の哲学」があたり、世外教は「印度の仏教西国の耶蘇 教は皆」世外教とした。以下はその要点である。世教とされるのは「共に現世の事を説き、此現身を修むるをことを説き、此現在の邦国及び社会を調和すること を説」くからである。また世外教は「其教たる現世の事を言はざるに非ざれども、其帰着する所は未来の応報と死後の魂魄の帰する所に在るを以てなり」と特徴 づけられる。そして世教は「道理を首とし」世外教は「信仰を主とす」るものである(『西村茂樹全集』巻一所収、四―六頁)。
他方で、西村の日本の歴史についての認識も興味深い。日本には「世外教世教相次いで到来し、仏道は上下共に一般に行はれ、儒道は独り上等社会にのみ行はれ たれども」「仏教に及ばず」「、江戸時代以後のこととして「三百年以前より儒道大に武門の家に行はれ」「教育政治法律共に儒道に根拠」してきたが、一方仏 道は「下等人民の信仰するに止まりて「儒道」に及ばず幕末になった。」と見るのである。その上で明治以降の現状をつぎのように認識している。すなわち、 「儒道」の「廃棄」により、「日本の中等以上の人士は道徳の根拠を失ひ、人心の固結力を弛緩し、民の道徳漸く頽敗の兆を萌せり」という状況があらわれた が、しかし、そこに耶蘇教・(西洋・・注)道徳学の流入はあっても、「全国公共の教」とはならない。階級的には、農工商の三民は、道徳の高下を論ずる意味 がなく、他方、士族以上は、「儒学の薫陶・本邦一種固有の武道があった」が「固有の教法」はない。そう総括した上で、西村は「国の風俗人心を維持するは道 徳」であるが、ではその道徳は「世教」のよるべきか「世外教」によるべきか、とその構想を述べる。西村の結論は、世教である儒教・哲学の二教から「精粋を 採りて其粗雑を棄」て、「精神を取りて其形迹を棄」て、「一致に帰する所を採りて」「一致に帰せざる所を棄」てるものを用いるべきである、というもので あった(同書七頁)。

「世外」的価値を否定し、「世教」の埒内に道徳の価値を制限しようとするこの西村の構想は、一方で、政治的な近代日本の思想的体制の表現であり、他 方で、ひろく近代の支配的世界観にもつながっていく。国民道徳論の展開など、公教育の場面に多くの影響をあたえ、また他方、神道(仏教とともに耶蘇教への 対抗的存在として無用ではないが、神社神道は宮内省に属させるべき・・等々『国家道徳論』)を宗教の埒外のおく思想的骨格を作っていく。世教の規範力は、 こうした死生観を括弧にいれた世俗化、現世性、国民道徳論的な近代の志向と無関係ではありえないという形で、進んでいくことになる。さらにはのちの神社合 祀問題など、神道の非宗教化、民衆神道の民衆からの簒奪という、宗教教育と深く関わる政策の遂行につらなっていく。すなわち、神道は仏教とともに、耶蘇教 への対抗的存在として無用ではないが、神社神道は宮内省に属させるべき等々の西村の議論は、神道を宗教の埒外(神道非宗教説)におくという(現代にいたる までの)宗教政策やその体制の思想を作っていく。西村の構想にあらわれる「世教」の規範力は、このように「吉凶禍福」の信仰等の超越的死生観を括弧にいれ た世俗化、現世性をしめすものであり、明治から大正期の尊皇を中核とする「国民道徳論」的な近代的再編の志向と無関係ではありえない。西村の思想の唱導 は、神社合祀問題などともふかく連関をもつ思想の運動として、国家神道の方向に導かれる思想的統制下で、各人の宗教的心性はそれと抵触しない限りは、許容 されるという方向へと、陰に陽に、一定の抑圧をともないながらすすめられていった。

こうした世俗化は、戦前の市民のレベルでの、硬軟両面での二重帰属の意識をもたらしたといえよう。一定の形式で国家という公的権威の宗教的諸施策への同調がもとめられ、他方でそれ以外では個人のあるいは信仰者の自由裁量にまかせる、というという形をとった。

こうした政策化は西村個人の思想的営為にのみ期せられるべきものではないだろう。
しかし、わたしが、あえて西村を取り上げたのは、かれが認識していた近代日本の位相の受け止め方が案外に今の私たちの位相に近似しているということであ る。前述の引用をあらためて想起するなら、江戸期から明治の過渡期は、西村によれば、とりわけ支配層、具体的には武士の道徳・宗教の空白期であるという認 識である。すなわち、「儒道」の「廃棄」により、「日本の中等以上の人士は道徳の根拠を失ひ、人心の固結力を弛緩し、民の道徳漸く頽敗の兆を萌せり」とい う道徳の空白状況があらわれたというのである。そしてその中核をなす武士には、「儒学の薫陶・本邦一種固有の武道があった」が「固有の教法」はなかった、 というのである。西村の構想は、こうした空白状況のなかで、いわば「国教」としての日本的「世教」を打ち立てることであった。

以上のような西村の甚大な影響力をもった西村の構想・時代認識は、それに対して「世外教」的立場にたったたとえば山路愛山の同時代の認識などによっ て相対化する必要はあるだろう。なお、昨今いろいろな形で想起されている新渡戸稲造の『武士道』等のとの連関も重要であろう。新渡戸は、この著作で、外国 人学者の質問(「宗教教育」なしに「どうして道徳教育を授けるのですか」)によって、日本での道徳の教えのいわば<空白>に気づき、そのことで「武士道」 を、自己をかえりみることでいわば<想起>した、という。『武士道』は明治32年の執筆であり、西村の『日本道徳論』ははるかに時期的に先立つものである が、武士に連なる両者の<道徳的空白>の認識と、それを埋めようとする方向の違いという意味で、本テーマに深く関わるであろう。武士道がまさに活きていた 時代に生きた西村(1828年生まれ)と、1862年にうまれ、武士階級の出とはいえ、武士道を実感として体現していないとみえる新渡戸との違いが、武士 道を道徳としてどうみるか、死生観としてどう見るかの差異として現れていると思われる。今日新渡戸の武士道が想起され、道徳の再興の主張によって想起され ている現象は、彼自身のすでに<失われたもの>としての武士道の想起と、現代の倫理・道徳の<空白>感という気分とシンクロしているともいえるだろ。

最初で取り上げた柳田と大拙にもどるなら、両者もともに、大きな時代の変わり目の中での、宗教的道徳観の<空白>を埋めようとするものであった。柳 田の方向は、西村の構想した民衆的信仰としての神道の非宗教化とその意味の簒奪への反撃と読めようし、大拙の主張は、まさに「下層人士」の宗教と切り捨て られた仏教からの再生の声であった。その意味で、西村的な近代の構想と真っ正面から、ぶつかるものであった。かれらの戦後をみすえた構想も、しかし戦後の 一層の非宗教的な世俗化の進行の中では、むしろ西村的構想の延長上の進んでいるおり、かつ西村的「世教」すら、そのなかで、本来求められた道徳の基軸が溶 解しつくしたようにみえる。それだけに、その空白にむけて、さまざまな声があげられているのだといえよう。倫理道徳の再興にかかわる宗教教育の必要を説く ことは、そうした近代の思想的歩みそれ自体を、明確にとらえなおし、かつ批判的にふまえるという形をとってはじめて力を持つであろうし、さらには、異なる 立場であれ、柳田、鈴木、西村がそれぞれにしたように、日本思想・宗教思想の歴史の全体の再検討を意識しつつすすめられることで初めて、単にすでに失われ たものへの郷愁という消極的なものとしてではなく、未来を大きく構想する強力かつ有効なものとなるのではないか。哲学・倫理学がそうした構想力になお寄与 することが求められるであろう。