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共生の地球平和システムの構想

共生の地球平和システムの構想
平田俊博(山形大学)

1. 気候変動と地球システム
2. カントの平和論と地球システム
3. 松井孝典の地球システム論と人間圏
4. 安田喜憲の文明の環境史観と日本文明
5. 類的思考と種的思考と実存的思考
6. 共生の三態と地球平和システム

1.気候変動と地球システム:

「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」二〇〇七年第四次報告書:
気候変動に関するあらゆる科学的研究の論点整理を行なって、人為的原因なしには温暖化現象の説明が不可能なことを認めた。さらに、次の二点を重大問題だとした。
1)個人や国家の安全保障が危機。環境難民の大量発生。国家の破綻。
2)国家間の対立激化。共生システムの破綻。

2.カントの平和論と地球システム:

[カントの地球システム論]
カント哲学=人間理性の立法=世界哲学=世界公民的意味における哲学:
地球上の一地点での権利侵害が地球上の全域で感じとられざるをえない。
カント哲学の二つの根源的原理:
1生得的な自由の原理:人間すべてが本性上有している権利。
2根源的取得の原理:人類一般にのみ属する権利。人間は生きていくためにさまざまなものを取得し所有する権利をもつ。取得された権利の権原。
 2-1根源的共有の理念:万人による根源的な地球全土の総所有。土地を象徴として人間以外の地上のすべてのものを人類が共有するという、自然法的な理念。
2-2根源的契約の理念:各人は可能性としての根源的共有の理念に基づいて、現実に土地などを占有するのであるが、それが必然的な権利として、つまり「所有権」として万人から承認されるためには、根源的契約によって万人の意志を統合して、「公民的状態」に入るしかない。 [カントの平和論]
自然状態⇒公民的状態⇒世界公民的状態⇒国際連盟⇒世界共和国(理想)
[カントの理性論]
冷戦後の地球化の時代にあって、第二次世界大戦後に世界を領導してきた有力な思想が、いずれもカント哲学に復帰しつつあることは注目に値する。
ハーバマスはコミュニケーション行為の理論(“Theorie des kommunikativen Handelns”,1981)によってカント哲学を克服しようとしたが、その試みは挫折したと言ってよい。その理由は、コミュニケーション的理性とカン トの批判的理性との親近性がかえって明白になったからである。ハーバマスには批判的理性に関して二つの誤った思い込みがあった。その一は、批判的理性を、 個人の自己保存を至上価値とする主観的理性だと、したがって道具的理性ないしモノローグ的理性だと理解したこと。その二は、個人を理性的存在者として理解 したことである。しかしながらカントが言う理性は、本来いかなる意味でも個人的なものではない。例えば、カントは次の通り述べている。
「人間の内で、みずからの理性の使用をめざす自然素質が完全に展開するのは、ただ類においてのみであり、個人においてではないはずである。・・・理性はそ れ自身、本能的には働かず、試行と練習と授業を要する」(『世界公民を意図した普遍史の理念』一七八四年)。 つまり、カントによれば、人間の理性は個人に内在するのではなく、人類全体が共有するものなのである。ただ可能的素質としてのみ各個人に内在する理性が、 個人相互の交際を通じて教育されて開花し、人類全体においてより完全なものとなるよう進歩するのである。 またカントの言う人間は、単独の個人としては本能的、感性的存在者にすぎない。そのような個人が理性的存在者となるには、みずから立法した道徳的法則に従 うしかない。わけても、亡命ユダヤ人の社会学者カール・マンハイムが「民主主義的信条」(『自由・権力・民主的計画』第八章)の原理として評価した次の定 言的命法が、そのことをはっきり示している。「自分の人格のうちにも他の誰もの人格のうちにもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、 けっしてただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」
つまり、この定言的命法に従うことによって初めて、各個人は他者との理性的関係を樹立し、他者のみならず同時に自分自身をも理性的存在者、すなわち本来の 人格たらしめることができるのである。可能的な人格にすぎない自分が本来の人格となるためには、可能的人格である自分や他人の人間性を行為の目的とするこ とが必要(brauchen)なのであって、初めから自分が完成した人格として自他の人間性を使用する(gebrauchen)のでは決してない。定言的 命法に従う行為が、それゆえ道徳的行為が、素質としての人格を現実化すると言えよう。だからこそ人格は、自分のであろうと他人のであろうと、目的自体なの であり尊厳なのである。
ハーバマスの誤りはカントを誤解した点にあるのであって、コミュニケーション的理性そのものは高く評価されてよい。ただし、その場合でも彼はもっとカント から学ぶことができたはずである。カントは『純粋理性批判』第二版の新しい序文の中で、純粋理性批判という仕事をポリス(Polizei)に準えている。 ポリスは古くは都市国家ないし公共体を意味し、現在では主に警察を指すが、カントの時代には更に消防、保健など公共の福祉安全に関わる行政を総称するもの であった。したがってロックの言う小さな政府にほぼ相当するので、カントの言うポリスを公共行政ないし福祉行政と訳すことができよう。公共行政としての純 粋理性批判の職務は、「弱い人間たちの立場(Stande schwacher Menschen)」(“Kritik der reinen Vernunft”1781, A476:B504)に立って、人間の根源的権利である自由を一切の侵害から保護することにあった。
それゆえ、この点でカントは明らかにロールズの公正的正義論の先駆けなのである。しかもカントの批判的理性は、個別的な紛争に携わるのではなくて、紛争の 根を根源から断つための法則を立法した。これが消極的立法であり、また消極的法則としての規律(Disiziplin)である。定言的命法も実践的領域に おける規律であって、人格と称せられる理性的存在者に人間がなりうるための消極的法則だと言える。
総じてカントの批判哲学は訴訟手続き的性格を示すが、とりわけ、弱者の立場から公権力の行使の違法性を争い、その取り消しや変更を求める行政訴訟法的性格 が顕著である。カントにあって行為を正当化する権原は、すべて自由に発している。自由こそ人間の根源的権利であり、人権の核心をなすのである。しかしなが らカントの言う自由は、好き勝手にしてよいという意味での個人主義的で幸福主義的な自由ではない。すなわち、功利主義的な自己決定の自由ではない。カント の自由は権利としての自由であって、自他が権利の主体として両立できる共生の作法としての自由なのである。つまり、自律の自由であり、自己規律の自由であ る。したがって、他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい、というだけではなくて、自分自身をも粗末にしてはならない。批判哲学において愚行権は認められ ない。
またカントは、理性的存在者や人格を現実の人間に限定していない。人間以外でも道徳的法則に従いうる限りでは、その可能性において、あたかも理性的存在者 や人格であるかのように見なすことができる。カントの人格は、目的の国の成員である道徳的人格であって、実定法上の人格に限定されない。それゆえ、道徳的 法則に関与しうる限りの存在者もまた、人格として扱われることができる。したがって、意志表示能力が十分でない未成年者や精神的障害者も、意志表示資格が 制限される不法在留外国人や奴隷や捕虜や囚人も、意志表示能力を欠く胎児や脳死者や死者すら、さらにペットや自然環境などに至るまで、道徳的行為の目的で ありうるのであり、その意味で人格として扱われることができるし、また、そのように扱わなければならない場合もある。こうしたことは、生命倫理や環境倫理 が、さらに世代間倫理や葬送倫理が、また殺人被害者など死者の人権が大きく問われることになるであろう二一世紀の倫理にとって、カントの倫理学書『人倫の 形而上学の基礎づけ』が非常に重要な意義をもつことを示唆している。
ともかく、近代は人権と国家主権の両極が価値の原点であり、そして国家主権が優位にあった。国家主権が認知し保証する限りで、人権が現実的意味をもちえた のである。けれども、二十一世紀は地球の時代であり、脱近代、脱国家の時代である。国家主権は制限され、人権のみが究極の価値の原点だと見なされる日も遠 くあるまい。いずれカントがいう世界共和国が実現するかもしれない。そのとき国家主権の意義は、人権に奉仕する以外にない。だが、人権の概念は歴史的に形 成されてきたものであるから、国によって様々であるのが実情である。ことに、欧米や日本のような人権先進国と中国のような人権途上国とでは、人権の理解に 著しい齟齬が見られる。さらに現在でも、人権が全く保証されていない国が少なくない。地球上の全人類に公平に人権が保証されるために、そして世界公民法が 実現するためにも、人権の概念は見直されざるをえないと言えよう。その際、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』と人格の思想が、今以上に大きな指針とな ることであろう。
[カントとアリストテレス] アリストテレス倫理学は幸福主義倫理学であり、それに対して、カントは幸福主義を否定することで道徳改革を成し遂げた。問題 点は、基本的人権の核心である生命権をどのようにとらえるか、にある。カント倫理学の論理によれば、生命権を殺されない権利と殺さない義務として考えるこ とができる。しかし、アリストテレス倫理学ではどうだろうか。「弱い人間たちの立場」に立って、人間の根源的権利である自由を一切の侵害から保護しようと いうカントの批判精神を、アリストテレスに見出すことは簡単ではない。
二十一世紀の倫理学の最大課題の一つが、死者や死にいく者という過去世代の人権を、あるいはまた、未生の者という未来世代の人権を、どのように確保する か、そして、現に生きて殺す能力をもつ生者の人権を、そうした最弱者の人権とどのように調停していくか、にあると考えられる。さしあたって問題となるの は、殺人被害者の権利の回復である。「死人に口なし」という功利主義的な思想は、確かに倫理的とは言えまい。そして近代の功利主義は間違いなくアリストテ レスの幸福主義を継承している。

3.松井孝典の地球システム論と人間圏:

『地球倫理へ』(岩波、1995)、『われわれはどこへ行くのか?』(筑摩、2007)
①地球システムと地球史:1火の玉地球、2水惑星、3陸・水惑星、4生命の惑星、5文明の惑星
②文明の惑星:1万年前に農耕の開始、人間圏の誕生、
11個の構成要素: 人間圏・生物圏・大陸地殻・大気・海・海洋地殻・上部マントル・下部マントル・外核・内核・磁気圏
③地球の未来:構成要素である物質圏の発展と消滅、現在は折り返し点。
人間は新しい生存環境であるニューフロンティアを自ら造り出して、そこへ行くしかない。そのために地球システムのなかで安定な人間圏を設計し、人間圏の内 部システムを新たにつくり直さなければならない。そのような設計図を描くうえでもっとも重要なのは、世界の人口をどのように制御しうるかということだが、 この点に関して科学はまだほとんどその手がかりをつかんでいない。とは言え、数億年という地質学的なタイムスケールでは、いずれ人間圏も生物圏も……何も かも、確実に消滅する。

4.安田喜憲の文明の環境史観と日本文明:

『文明の環境史観』(中公叢書、2004)。
安田の提唱する文明の環境史観は、梅棹忠夫の文明の生態史観(一九五七年)を批判的に発展させたものである。先行史観として安田はさらに、カール・マルク スの唯物史観(一八五九年)、和辻哲郎の風土史観(一九三五年)、川勝平太の文明の海洋史観(一九九七年)を挙げるが、これらはいずれも静態的環境論に立 脚している点で問題を残す。つまり、動いているのは人間だけで、自然環境は基本的に永遠不変のものと見なされている。その意味で、どれもが人間中心主義に 立脚した直線的発展史観の系譜に、言い換えれば「強者の文明論」に属する。
安田の「動態的環境論」(一九八〇年)からすれば、人間の歴史だけでなく、自然環境もまた「ダイナミックに変貌する」。ダイナミックに変貌する自然環境の 下では、所詮、人間はみな弱者にすぎない。弱者の文明論として、東洋的な「円環的循環史観」や「平和共存史観」の必要。二十一世紀という環境動乱の時代 が、安田が提唱する「文明の環境史観」を呼び求めている。
文明の環境史観の「最終目標」は、「世界の古代文明を、高精度の環境史復元を軸として比較環境史的に調査研究し、日本文明の人類文明史における位置と特殊 性を解明し、日本人が誇りをもって生きることができるように日本文明史像を再建する」ことにある。近代ヨーロッパ人の目ではなく、日本人の目で人類文明史 と日本文明史を再建。
人類文明史:地球リズムに連動する人類文明の周期性が、気候変動と民族移動を具体例として解明。土器や稲作を具体例として、環境変動と文明の胎動は東洋が 西洋に先行。モンスーン気候の大変動が、中国南部の長江文明や日本の青森の三内丸山遺跡の興亡の原因。宗教革命や疫病の大流行の発生が、気候変動や環境変 動に連動。森の役割と日本文明史の新たな構造。

5.類的思考と種的思考と実存的思考:

松井の類的思考:人間圏と人類一般の存続期間の延長が目標。
安田の種的思考:日本文明の人類文明史における位置と特殊性を解明。
カント‐平田の実存的思考:万人各自の自由権と生存権の確立。

6.共生の三態と地球平和システム

[三種の共生概念]
共生1:生物学的概念:二種間で両方または一方が利益を受けて、どちらも害を受けない関係。
共生2:精神医学的概念:二人の人間が互いに頼り、励まし合う関係。
共生3:仏教的概念、グショウ・ともいき。善導「願共諸衆生往生安楽国」と源信『往生要集』「共生極楽成仏道」を法然が結びつけて浄土宗を開く。
椎尾弁匡:在家仏教運動として大正期に共生会を組織して、共生の思想を根付かせた。

[共生の三態]
生者と死者の相関関係の3様態に基づいて、近代倫理の領域を3種に区分。
近代倫理を3領域に区分した歴史的理由:キリスト教内のプロテスタントとカトリックの対立が宗教戦争に発展した結果、生命権を絶対視するホッブズ的社会契約論が成立。

表
生者と死者の相関関係の3様態に基づく近代倫理の3領域の特徴:

法律:生者のための倫理・生者と生者の関係・3人称の死・功利主義的正義
道徳:生者と死者の対等倫理・生者と死者の関係・2人称の死・定言命法的正義
宗教:死者のための倫理・死者と生者の関係・1人称の死・同害報復的正義