刊行物‎ > ‎『会報』‎ > ‎『会報』第2号‎ > ‎

『草木国土悉皆成仏』の意義について

『草木国土悉皆成仏』の意義について
竹村 牧男

日本には「草木国土悉皆成仏」の句がある。それは、単なる自然への情緒的な感性を表現したに過ぎず、自然を尊重することにつながるかもしれないが、それ以 上には意味がないといわれたりする。むしろ、そうした感覚があったにもかかわらず、日本の近代化の過程において、ひどい自然破壊を阻止することはできな かった。したがって、そのような言葉ないし思想は無力だといわれる。本稿は、この「草木国土悉皆成仏」は、単なる「感性」の表現にとどまるのか、それとも 何らか「知」を含んでいて、しかも環境問題に有効であるのか、有効であるとすればそれはどのような意味においてであるか、を考えてみたい。

この句は、お能にもしばしば引かれていることは有名である。およそ20ほどの謡曲に、この句ないし思想を見ることができるという。おそら くはそれらを通じて、この見方は民衆にも相当程度、広まったものと思われる。この句は、道邃(1106~1157?)の『摩訶止観論弘決纂義』巻一に出る 「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」がもっとも古いものと見られている。のちの宝地房証真(~1156~1207~)の『止観私記』には、「中陰 経云、一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名、妙覚如来」と出ており、この頃にはすでに完成していたことになる。今の句 においても、上述の謡曲においても、しばしばこの句は『中陰経』に出ると指摘されるのであるが、実際には『中陰経』には存在しない。したがって、この句は 日本で作られたと考えられ、その思想は日本的な思想と考えられるわけである。(ただし日本のみに固有かどうかは、さらに別途検討すべきである。)
また、以上から、この思想は、主に天台宗において議論されてきたものであることも、知られる。もちろん真言宗等でもではこのことが論じられているが、本稿では主として天台宗における議論に焦点を合わせることとしたい。
この思想の淵源は、天台智顗(538~597)の『摩訶止観』に出る、「一色一香無非中道」(一色一香中道に非ざる無し)にある。のちの荊渓湛然 (711~782)は、『止観輔行伝弘決』において、この句の解釈をめぐり、中道に仏性を読み込み、非情にも仏性があるということを強調した。こうした中 国天台教学を背景に、日本においては最澄(767~822)ののちに、この問題が大きく扱われていくことになる。円仁、円珍、五台院安然、良源、源信らが この問題を論じ、多くは草木が自ら発心・修行・成仏するということさえ認めようとしたのである。
そうした中、忠尋(1065~1138)作と伝える『漢光類聚』(これも忠尋の真作か疑問視される場合もある)は、その思想の論点について、まと まった形で示している。そこには、ともかく「草木国土、悉皆成仏」の句の思想的背景が七種の理由に整理されていて、なかなか参考になるものである。その意 趣を私なりにまとめてみると、以下のようである。
一、仏智の相分としての草木は、仏そのものである。(諸仏観見)
二、草木も、理智不二の真如本覚を有しているところに、仏を見る。(具法性理)
三、身心の個体と国土は不二一体であり、仏身を成ずれば仏国土も成じて、そこに草木も成仏する。(依正不二)
四、草木はそのままで、本来清浄・当体常住であり、そこが成仏である。(当体自性)
五、法身は草木を貫いており、その法身は報身・化身と別でない。故に草木はもとより三身を具している。(本具三身)
六、草木の自性は不可説であり、その勝義の真諦を仏という。(法性不思議)
七、一念三千の道理により、心に色を具すと同様、色に心を具す。故に草木にも三千があり、したがって成仏する。(具中道)
ここに見られるのは、自己と世界の関係の論理的・哲学的な把握である。決して、単なる湿潤な自然に生きる日本人の感性の表現にとどまるものではないことが理解されよう。たとえば、忠尋の説には、自己と自然の関係に関して、簡略にいえば、
①自己と自然は、不二であり、切り離せない(依正不二)。②自己の完成と自然の完成は連動している(諸仏観見)。③自然の一つ一つが、自己と自然 を超える究極のいのちに貫かれている(具法性理)。④自然の一つ一つは、他のあらゆる存在と関係し、他を自己としている(具中道)。⑤自然の一つ一つは、 もとより霊性的内実を有している(本具三身)。⑥自然の一つ一つは、それ自体において絶対的な価値を有している(当体自性)。⑦本当の自然および自己は、 言葉を離れている(法性不思議)。 といった了解が含まれている。ここには、必ずしも天台の本門という特異な説に傾きすぎていない、自己と自然のいのちの深い自覚をここに見ることができるで あろう。
こうした自己了解は、それに沿ったライフスタイルを生み出すのではなかろうか。興味深いことに、ディープ・エコロジーを提唱したアルネ・ネスは、 環境へのはたらきかけのみを主張するのではなく、自己意識の変革をその思想の根本においている。すなわち、自己の拡大がおのずからの愛他の実践につながる のであり、このことがもっとも根本的に重要なことだと説くのである。次のようである。
「生物と風土とは二つの事物なのではない。……同様に一個の人間は、人間が全体の場のなかでの関係的な接合点である、という意味では、自然の一部 になっている。一体化の過程とは、この接合点を定めている諸関係が拡大して、ますます多くのものを含む過程である。自己(self)が自己(Self)に 向かって成長する。」(Arne Naess, Ecology, community and lifestyle, Cambridge University Press, 1989, p.56,アルネ・ネス著、斎藤直輔・関
龍美訳『ディープ・エコロジーとは何か――エコロジー・共同体・ライフスタイル』、ヴァリエ叢書4、文化書房博文社、1997年92頁)
「私たちと他の存在者との連帯について私たちがもっと理解するにつれ、一体化は進み、私たちはもっと配慮するようになる。これにより、他の存在の 幸福を喜び、彼らに危害がふりかかった場合に悲しむようになる道が開かれる。私たちは私たち自身にとって最善であるものを求める。しかし自己の拡張を通じ て、私自身にとっての最善がまた他の存在にとっての最善にもなっている。〈自分自身のものである―自分自身のものではない〉の区別は、文法上残るだけで、 感情の面ではなくなる。」(Ibid. p.175, 同前、279頁)
このように、アルネ・ネスは、自我(ego)・自己(self)・自己(Self:深遠にして包括的なエコロジー的自己)と自己了解が拡大し、そ の自然と一体である自己の了解は、おのずからあらゆる存在の自己実現を喜ぶ生き方を実現していくという。仏教の立場からいえば、自然と不二一体である自己 とは、空性の原理において成り立つことであり、無我である自己において成立することである。これに対し、ネスの自己拡大は、大我の思想ではないのか、それ は仏教と相容れないのではないか、といった問題は検討してみなければならない。そういう問題はあるものの、今は自己を身心のみと思うのではなく、環境も含 めて自己であると見る視点の意義を汲んでおきたい。その視点を得たとしても悟りを開いていない以上はいまだ抽象的であり、また人間は無明・煩悩もかかえて いるがゆえに、そうした自己了解が直ちに愛他の十全な実践をもたらすとも言えないであろうが、私は、基本的には、このようなまず自己了解の転換を推しすす める立場を支持したい。それは、具体的・数値的な行動の基準、指針をただちにもたらすものではないとしても、我々が実践していくライフスタイルのもっとも 根本にあるべきものであろう。

問題は、日本にも、こうした哲学があったにもかかわらず、それが近代化の過程において十分に機能しなかったことであり、その理由を掘り下 げて検討し対処していかなければならない。そのほか、さまざまな問題を検討しなければならないとしても、ともあれ、「草木国土悉皆成仏」の思想が、まった く意味がないとは思えない。それは、単なる「自然感」なのではなく、「自然観」なのであり、実は人間観・自己観であるからである。環境問題、サステイナビ リティの問題に対処していくためには、多角的・総合的に対策を考え、実践していくことが求められていようが、その根底には、自己と世界に関する深い了解が あるべきである。その了解への一つの道として、この「草木国土悉皆成仏」の句ないしその思想は、もう一度検討されるべきものを豊かに蔵していると思うので ある。 (了)