刊行物‎ > ‎『会報』‎ > ‎『会報』第2号‎ > ‎

環境と文化-風土の視点から-

環境と文化-風土の視点から-
半田栄一

代の環境問題を考える場合、際限のない人間の物質的欲望や経済的繁栄を至上のものとする価値観があることは否めないが、近代以降の科学技術文明の発展が環 境問題の主要な原因といえるであろう。その根底には、対象としての自然を観察・実験し、法則を見出し、それを技術化することによって自然を支配し、管理す るという自然科学的な態度が存在している。これはヨーロッパやギリシャ、キリスト教の文化圏における自然観・生命観が基礎になっている。それに対して日本 や東南アジアの文化圏では、自然を受け入れ調和していく、現代の言葉を用いれば「共生」という自然に対する態度が存在した。こうしたところから環境問題の 解決の手がかりを考えていかなくてはなるまい。
今、自然環境というとき、自然科学的な自然観により自然を人間の外なるもの、周囲を取り巻くものとして対象化して捉えているが、これは閉じられたシステムであり、環境対策も「対症療法的」とならざるをえない。
将来に向けた環境問題の根本的な解決には、文化や文明を性格づけている人間の自然との関わり方や態度をとらえ、新しいモラルと文明を志向すること が必要となる。そのためには自然科学的視点ではなく、現象学的、人間学的な捉え方で自然と人間の関わりを「風土」において捉えて文化や文明の持つ性格から 考えなければならない。

1.風土と文化・文明

和辻哲郎は「風土」1)を対象化され、われわれの外にある「自然環境」と区別し「人間存在の構造契機」として捉え、「主体的な人間存在の表現」、 「自己了解の仕方」とした。それは「間柄」としての自己を見出す場であり、文化の成り立つ場である。和辻はその風土論において、自然との関わり方をはじ め、生活や生産の様式、共同体のあり方、宗教、美意識とその表現等において文化の性格が規定されることを極めて明晰に論じている。
和辻の風土論においても科学技術の発生・発展はギリシャとヨーロッパの牧場的な風土に根ざしていることが指摘されている。ヨーロッパでは雑草が生 えず、木が垂直に伸びるのであり極めて合理的な姿を現わし人間に対して従順であるという。この風土で芽生えた合理的精神が近代科学技術発展の基礎となっ た。ヨーロッパの合理的精神の根底にはギリシャのテオリアがある。エーゲ海に代表されるギリシャの明るく、合理的な風土は一切の利害・先入観を脱却して 「自然」を見る態度、「テオリア」を生んだ。ここにギリシャにおける「自然の人間化」、「人間中心的な立場」が可能となった。科学的観察の起源といえる。
さらに、科学技術文明の淵源として砂漠的風土および、そこから生い育ったユダヤ・キリスト教の自然観・生命観をあげることができるであろう。砂漠 において、太陽は恵みの存在ではなく乾燥と水の欠乏によって人間に「死」をもたらす。そして他の人間や集団と水を得るために戦い合う。和辻によれば砂漠的 風土における人間は自然とも、他の人間集団とも対抗し合うのであり、「対抗的・戦闘的」である。この戦闘的共同体の掟はヤーヴェの神が示した「十戒」に反 映し絶対服従と裁きの宗教としての一神教を生んだ。「生め、殖やせ」は砂漠に生きる民が営む牧畜において、死に対する生の戦いの叫びである。唯一絶対の超 越的人格神は宇宙のすべてを無から創造し、被造物として唯一理性を与えられた人間によって自然のすべてを支配管理することを命じた。
ここにヨーロッパにおける科学技術の発展の基礎としてギリシャのテオリア的精神と共にキリスト教的な自然の支配管理の思想が存在するといえよう。 『旧約聖書』「創世記」における、ノアが箱舟に選び取った動植物の種を選んだことは、西欧に端を発した現代の自然保護において人為的に自然を保護するこ と、また人間中心的ともいえる「動物の権利」保護の思想的な起源といえるであろう。さらには近年問題化しつつある遺伝子操作やクローン技術、臓器移植、生 殖医療等の生命・医療倫理上の問題にも連なっているといえよう。
自然科学は対象化された自然(人間の心身をも含めた)に対して実験、観察し、そこに得られた法則によって技術を生み出し、自然に手を加えながら、 さらに新しい技術を作り出している。この自然・生命に対する態度は、近世において主客、物心の二元論を説くデカルト哲学や機械論的人間観・生命観へと展開 し、近代科学技術を基礎付けた。
それに対して、自然を受容しつつ、自然と共生し自然との調和を見出すことにおいて、文化を形成した東南アジア・日本におけるモンスーンの風土と文化に関して考えることによって環境問題を打開する道を開かなければならないのではなかろうか。

2.日本人の美意識とスピリチュアリティー

和辻は東南アジア地域の風土をモンスーン的と規定し、そこにおける人間存在のあり方を「受容的・忍従的」としているが、日本の風土の性格はさらに特 殊で「熱帯的・寒帯的」だとし、「四季の変化が著しい」という。このことを人間の感情のあり方として「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」等と述べている。こ の風土の性格は突発的で激しい台風や雪があっても、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれたように湿潤であり、その太陽・水は農耕にとっては恵みであった。ここに日 本人の自然に対する受容性・忍従性が現れてくる。 自然との一体性を感じ、そこに調和を見出すあり方といえよう。日本的アニミズム・シャーマニズムの性格もこれによるのであり、ここに日本的スピリチュアリ ティーを捉えうる。日本人のこうした生命観・自然観、スピリチュアリティーは、美意識の形をとって日本文化の中に現れている。特に中世において、明日の生 死もわからない不安の中にあって、仏教が日本化し鎌倉仏教として展開すると同時に、日本人固有の自然観・生命観に基づいた美意識が典型的な形を持って形成 されてきたのもこの時期以降である。 「わび」の美の源流ともいえる西行は、不安と無常を感じつつ出家し、隠遁や漂泊の生活を通して自らの孤独を追求したが、その過程で衰えゆく秋の自然や冬の 雪の冷え枯れた有様に、また様々な自然に自己を投影し、そこに自らの孤独、生命のはかなさや死を見つめ、その極限において生命の永遠性を見出す。そこに同 時に美を見出す2)が、それは王朝的な無常美を越えた自然との自己同一性が捉えられる。中世的な実存の意識に深められたアニミズムということができる。や がてこの西行の美意識は千利休の茶の湯における「わび」や芭蕉における「さび」へと結実していく。わび茶における極小の茶室空間は、亭主と客が、わびの美 の共感を通して出会う場であるが、その美は自己の有限性と自然・宇宙の生命の永遠性、自己と自然・宇宙の一体性の自覚に基づいており、極めて宗教性を帯び たスピリチュアルな空間といえよう。当然のことながらそこに、自然に対する畏敬や感謝、他者に対する思いやりなどのモラルが出てくるのである。こうした日 本人の美意識に共通する点は変化する四季の自然の中に自らと同じ有限な生命を自覚し、生命の根源としての宇宙の永遠性への連続性を感得することであり、こ こにスピリチュアリティーを指摘しうる。これは、現代に至るまで自然の恵みに対する感謝と畏敬の念を表す祭やあらゆる生活文化、芸道、芸能等において、形 を変えつつも日本人の深層意識の中に生き続けている。

3.環境と共生のモラル

日本人の自然観・生命観は、自然と対抗したり、自然を対象化して捉えるのではなく、自然との生命の同一性を感じつつ、自然と調和を保ち、人間はそれ によって生かされてあるものであることを自覚するところにあった。自然を受容し、調和していくという態度は日本人の自然に対する態度であると同時に、モラ ルとして深く定着していた。衣・食・住をはじめとする生活文化や芸能、宗教意識の中にこの自然観は現代に至るまで生き続け、わび、さびに代表される美意識 に象徴的に表現されている。日本人の自然観やスピリチュアリティーは、祭の共有体験や芸能などの美の共感によって、身体や感性を通して確認し合ってきたと いえる。人間と自然のスピリチュアルなつながりは日本のみならず、都市文明以前の文化の基層に形は異なっても存在していた。その点で人類に共通するといえ よう。
自然の秩序と調和を守ろうとするモラルを志向するとき、日本人が保持してきた自然観・生命観を美意識や自然との関わりの中での宗教的体験を通して、次世代や世界に発信し、その共感によって新たな「共生」のモラルが可能となると考える。

むすび

環境問題の解決は科学技術と宗教性・スピリチュアリティーの統合において真に可能となる。人間が宇宙・自然に生かされてあること3)の自覚を持ち、 自然の調和を保つためにいかに科学技術を使用するかという、叡智とモラルが求められている。人間の対象としての閉じたシステムとしての自然環境ではなく、 宇宙に開かれた全一的な(ホロスとしての)システムとしての世界が考えられなくてはならない。


1)「風土」に関しては以下、和辻哲郎『風土-人間学的考察-』岩波書店、2005年による。
2)この境地を象徴する歌として、「心なき身にも哀れはしられけり鴫立つ澤の秋の夕暮」(田中裕、赤瀬信吾校注『新古今和歌集』岩波書店、1992年。)があげられる。
3)この境地を道元は『正法眼蔵』「現成公按」で「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」(寺田透、水野弥穂子校注『道元』上 岩波書店、1976年)と説いている。