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文化システムと倫理

文化システムと倫理
島薗 進

一、倫理規範と生活形式

地球倫理という時、言語的に表現できる普遍的な倫理規範を明らかにすることには一定の意義がある。しかし、普遍的な規則として示されることは、倫理 的な問題の深層には至り得ないことが多い。というのは、倫理は複雑な葛藤やディレンマのなかでこそその真実が露わになることが多く、普遍的な規範命題のよ うな形のみで倫理的な生活形式を示すことは難しいからである。また、倫理が実践されるのは生活形式を通してであるとして、それは宗教や文化の中に具体的な 形をとって現れるものであり、宗教や文化は複雑で多様な形をとらざるをえないからだ。
たとえば、「年長者を敬う」という規範については、文化によってかなりの差異がある。「年長者を敬う」「目上の人を敬う」ことが人倫の基本であ り、いのちを尊ぶことの中でもことさらに重い意義をもつと考えられている地域もある。日本では敬語が用いられ、目上であるかどうか、どのような意味でどの 程度目上であるかについて、繊細な感受性が育てられてきた。間柄を測り、それにのっとって適切なふるまいを行うことが倫理を身につけることの基礎と考えら れてきた。 年下の者、目下の者にどのような態度をとるかも、この間柄の倫理の実践上、重要な課題である。ただ人権を尊重する扱いをすればよいというのではない。親し みをもって目下の人に接するにはよびつけにし命令口調で話をした方が適切な場合もある。これは平等主義的な倫理規則からみると、人権を損なっているかのよ うに聞こえるかもしれない。だが、そのような生活の形の中で、いのちを尊ぶ文化と価値観を保たれてきたとすれば、そのような文化や価値の全体を問い直す必 要がある。文化や価値の現象形態の全体の中で、倫理規則や規範命題の意味を明らかにしていかなくては、現実から遊離した強引な利用のための理論になってし まうことになりかねない。

二、死生の倫理と文化・価値の多様性

生殖や家族のあり方、死の迎え方や死者の慰霊・追悼のあり方などは文化によってさまざまだが、それによって生命の価値、死生の意味についての考え方 は大いに異なってくる。多様な配偶関係を許容するかどうか、自殺を許容するかどうかなどの問題はわかりやすい例だ。死者に対する負い目をどのように意識す るかも宗教文化によって相当に異なる。これらを死生をめぐる価値判断とよぶとすれば、それは文化によってまことに多様である。死生をめぐる価値判断の問 題、とりわけ生命倫理の領域ではこのような文化的な多様性があらわにならざるをえない。 現代、各国で解決に苦慮している生命倫理の諸問題――人工妊娠中絶、代理出産、卵子提供や精子提供、臓器売買、ヒト胚利用、出生前診断・着床前診断、脳死 臓器移植、尊厳死など――をめぐって、諸文化の考え方の多様性は容易に解消しがたいものとなるだろう。とりあえず、それぞれの地域住民はそれぞれの文化的 背景に従って、納得できる答を求めていくことになる。だが、グローバル化が進む今日、国際的に合意を求めなくてはならない問題がますます増大している。 モーセに神が下したとされる十戒の中の「殺してはならない」と仏教の戒としての不殺生は同じことを言っているようだが、重要な差異もある。何よりもまず、 モーセが伝える戒は、「人を殺してはならない」ということであるのに対して、不殺生は「衆生のいのちを奪ってはならない」ということである。動物のいのち を奪ってはならないというのは、完全遵守が困難であって、いのちを奪うという罪を犯さざるをえない人間の条件の超えがたさの意識が前提とされている。その 背後には、なぜ人間のいのちがとくに尊いのかという理由についての考え方の違いも横たわっている。 教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅『いのちの福音』(カトリック中央協議会、1996年、原著、1995年)において次のように言っている。
「人間のいのちは、神に由来します。神のいのちの息吹を受けた、神からのたまもの、神のかたどり、神の刻印です。それゆえ、神は人間のいのちの唯一の主で す。人間は、自分の意のままにいのちを扱うことはできないのです。」教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『いのちの福音』カトリック中央協議会、1996年(原、 1995年)、78-9ページ。 これは、人間は神の似姿であり、生き物の中では他とまったく違う価値ある地位をもっており、だからこそ人のいのちは尊ばれなくてはならないとする考え方である。言うまでもなく、キリスト教的な神観、人間観に基づく議論である。
「神の支配に人間がある程度あずかっていることは、人間のいのちやその他のいのちなどのために与えられる特有の責任からして明らかです。それは、結婚にお いて男女が子どもを持つことによって、いのちをもたらすという最高の位置に達する責任です。(中略)親から子へのいのちの交流によって、つまり子を産むこ とにおいて、不死の魂が創造されたがゆえに、神自身のかたどりと似姿が伝達されます。(中略)アンフィロキオ司教が、「聖なる結婚は、人類を生み増やし、 神のかたどりを創造するがゆえに、他の地上のいかなるものにも勝った、えり抜きの崇高なたまものである」とほめたたえたのは、このような理由からでし た。」(同、85-7ページ)
この考え方は受精の循環からそこにまったき人間のいのちがあり、それをけっして奪ってはならないという人工妊娠中絶反対派(プロライフ)の議論の基礎に なっている。では、女性の選択権を重視して、中絶を認めようとする立場(プロチョイス)の論拠はどうか。そこには意識をもつ存在としての人間こそが尊ぶに 値する存在だとする考え方がある。
「尊敬を表す言語のやりとりは、他人を自己決定する自由な者(すなわち、目的それ自体)として認知するという意味をもつ。他者によって決定される存在者 (すなわち、善きもの・価値あるもののための手段、道具として用いられる存在者)として認知するものではない。尊敬を表わす言葉のやりとりは、他人を自由 な、道徳的行為者として承認するという下地があって成り立つのである。/(中略)自律を互いに尊重し合うこととしての道徳性(換言すれば、特定の富なり目 標なりを共同で追求すること以上のものとしての道徳性)は、「厳密な意味での人格」(すなわち、自己意識を有する行為者、自己を統御しうる存在者)が、そ の自律ゆえに、尊敬をもって扱われた時に始めて一貫して追求されうる。」H・トリストラム・エンゲルハート「医学における人格の概念」(1982)、加藤 尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会、1988年、22-23ページ。

ここでは人間が他の生物と比べて尊い価値をもつ理由は何かという問いが立てられ、それが自律性や意識や理性の有無に求められている。中絶についてカトリッ ク教会の立場とは反対の帰結を引き出すように見えるが、背景にある考え方にはどちらも「ある種の権能を付与されているが故に人間は他の生物と比べて高い価 値をもつ」というものである。
このような考え方と、仏教の不殺生の考え方には大きな違いがある。ここでは仏教徒であり、童話作家であった宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の例をひ いておこう。この物語では貧しい猟師が熊を殺して生計を立てているが、そのことを熊に対してとてもすまなく思っている。そしてそのことを熊の方もよく理解 しているという設定になっている。
「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。それも商売ならてめへも射たなけぁならねえ。……てめへも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。」
日本の文化では、生き物の死生に対する共鳴と人間の死生に対する共鳴を重ね合わせるのが自然で、とくにそこに根本的な区別を立てようとしない表現が好まれる傾向がある。小林一茶の俳句も引いてみよう。
我と来てあそぶ親のない雀
痩蛙まけるな一茶是に有
古郷は蠅すら人をさしにけり
やれ打つな蠅が手をすり足をする
しょんぼりと雀にさへもまゝ子哉

日本で人工妊娠中絶に対する反対論がさほど強くない理由は、さまざまな方向から考えて行かなくてはならないが、宗教的伝統と関わりがある文化や価値観の違いが重要な要素であることは否定できないだろう。

三、現代の実践倫理問題と文化の差異

現代世界は困難な実践倫理上の問題に直面しており、さまざまな意見が対立し合ってどこに正しい考え方があるのかとまどうことが少なくない。誰もがわ かりやすい表面的な論理を見いだすことこそ解決への道だとして、量的比較を可能にする形式的な倫理原則に依拠しようとする人も少なくない。生命倫理におい て功利主義が力をもつのは、こうした事情によるものだろう。だが、実践倫理上の問題は人間の生活形式の全体に深く関わるものであり、文化や価値の様態に深 く問いかけることなしには長期的にみて穏当な答は得にくいだろう。 昨今、とりわけ難しい問題として浮上しているのは、ヒト胚の利用の是非をめぐる問題や増進的介入(エンハンスメント)をめぐる問題である。生命科学や医療 技術を発達するに任せていけば、人間の生命を意のままに操作し、産み分けや長寿や、はては人間改造なども可能になるかもしれない。これはとどめるための抑 制論は、カトリック教会のような宗教的な論拠以外には目立ったものがない。一方、患者さんの福利のためという論拠、そして産業利益や国益のためという動機 はきわめて強力なものがあり、押しとどめるのは不可能ではないかと懸念されている。 アメリカ合衆国のブッシュ大統領の下の生命倫理諮問委員会の座長を務めたレオン・カスが次のように述べるのは、こうした問題に正面から取り組むには伝統の 中で育てられてきた文化や価値が重要であるという確信に導かれたものである。
「私たちが早急に必要としているのは、もっと豊かで自然な生物学と人間学である。魂と肉体の特殊な統合体である人間の意味を、きちんと説き明かしてくれる 学問が必要なのだ。そもそも肉体と魂は、取るにたりないものが、神聖なものへの希求と結ばれ、具体的な形となったものなのだから。 こうした理論を探していくとき、私たちは近代以前の源泉、哲学と聖書から助けを得られるだろう。たとえば、アリストテレスからは、魂は機械のなかの幽霊 (ゴースト)ではなく、ありのままの生物体にそなわっている優れた力であるという説を学べる。創世記をひもとけば、さまざまなことが学べる。地上でもっと も神に似た生き物が、なぜ土と塵とかぐわしい息で造られたのか。」(レオン・カス『人間操作は人を幸せにするのか』日本教文社、2005年)
生命の価値についての西洋の宗教や哲学の伝統に遡ってこそ、確かな答が得られるというのである。 だが、各文化ごとにそれぞれの伝統的な文化や価値を土台として実践倫理の諸問題が解決されていくとしたら、どのような事態が生じるだろうか。国や地域ごと に倫理的判断が異なり、許容される医療行為の範囲が異なるで混乱が生じることは、すでに明らかであり。よりよい治療を求めて、資金を携えて他国へ行き、そ こで自国ではできない医療サービスを受けるとか、投資や研究者が先端医療の開発のために、より許容的な国へ流れていくとか、諸国家が研究競争を支援して張 り合うなどの問題が生じる。グローバル化の進展によって、こうした問題はますます複雑な形をとって頻繁に起こることになる。 世界の実践倫理論者の間には、こうした問題をめぐる考察が進められようとしている。たとえば、レオン・カスと同様、ブッシュ大統領の生命倫理諮問委員会の メンバーだったフランシス・フクヤマは次のような懸念を表明している。
「たとえば、アジアでは、西洋で理解されているような宗教――つまり、超越的な神に由来する信仰体系を持つ宗教――がない国が多い。中国で支配的な倫理体 系は儒教だが、これには神という概念がない。/道教や神道のような民俗宗教はアニミズム(animism)であり、動物(animal)と生きていない (inanimate)物質の双方に霊的な性質があると見なしている。仏教では人間と人間以外の自然を区別せずともに断絶のない宇宙の一部だと見なしてい る。キリスト教と比べた場合、仏教、道教、神道のようなアジアの諸伝統は、人間とそれ以外の被造物との間に明確な倫理的区別を立てない傾向がある。」(フ ランシス・フクヤマ『人間の終わり』ダイヤモンド社、2003年)
ここではグローバルな次元で問われる倫理問題をめぐって、文化の差異に対するとまどいが表明されている。そこには他者認識のステレオタイプが反映している だろう。相互理解は容易でなく、そもそも合意に達することが可能かどうか疑われるかもしれない。 文化の差異に基づくこうした倫理規範の相違は、何らかの交渉による妥協を要請する。妥協のためにはある程度の相互理解が求められ、多様性を認識し合い認め 合うことも必要となろう。文化や歴史的経験の相違を考慮し、多様な価値観の由来を尋ね合い、批判し合う機会も増えていくことになろう。このような対話と討 議の場がますます必要度を増している。 こうしたプロセスは、必ずしも混乱や当惑をもたらすだけではない。多様性を前提としつつ地球的な合意を増やしていくことに貢献する可能性は十分にある。こ のように多様なものの相互交渉の中から生じてくる合意や妥協の中に、来るべき地球倫理の萌芽形態を見ることもできるだろう。死生の価値のような具体的な問 題に関わって、容易ならぬ対話や討議が必要になって来ていることは、人類社会にとっての試練であるとともに、地球倫理の豊かな展開の可能性を垣間見せるも のでもあるだろう。