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自然哲学と自然科学

ポーランド国立学術院ウィーンセンター連続講座
「自然哲学と自然科学」
2006年4 - 6月
橋 柃(はし ひさき)
 欧州ではEU(欧州連合)旧・東側諸国への拡張をめぐり、政治面では加盟各国間の思惑がらみで種々の論議が為されている。経済面では東側諸国の統合通貨 (Euro)への加入の是非をめぐって昨今はメディアの動きも慌しい。他方、文化面では、旧東側諸国とドイツ語圏欧州の交流が地理的に近く、また過去一世 紀半以上に及ぶ伝統に根づいて交流がさらに活発化している。そうした動向の中、ポーランド国立学術院ウィーンセンターの理事長、マリアン・ヘルマン氏(元 ワルシャワ大学物理学科教授)の要請により、「自然哲学と自然科学」の連続講座の企画が筆者に委託された。
哲学と科学というと、通常「科学史・科学哲学」など分析哲学系の領域を思い起こす。二十世紀後半のウィーンでは、ヴィットゲンシュタイン、ポッパー、ノイ ラート(ウィーン学団)らの系譜から出て、また異なる学風がこの分野に興隆した。戦後の哲学界の中心だったE. ハインテル(1912 - 2000)による幅広い学際交流へのとりくみである。ともすれば「学のための学、空疎で長大な論議、空理空論と際限ない語彙の解明と解釈のための解釈学」 となりかねない戦後の哲学界の動向を憂えて、ハインテルは諸学の根源としての哲学、人間の知の根源を探求する学としての新生哲学をめざした。その本領はカ ント、ヘーゲル、フィヒテ、シェリングなどの伝統分野だったが、プラトン、アリストテレスに根ざす叡智探求の学、ライプニッツに見られる数学・自然哲学と 科学精神の融合する存在の体系学を志向。二十世紀の自然科学はその実証性に基づき、科学万能主義への傾斜を強めていた。そうした際、科学を含む人間の知そ のものを反省・省察する<根源の学>としての哲学、その復興は焦眉の課題である。危機感を抱くハインテルは哲学・心理学・教育学の交流機関 誌<学術と世界像>の刊行に積極的に関与し続け、1968年には綜合的な哲学誌<ウィーン哲学年鑑>を創刊。他方、1960年代 末から種々の学際研究班を意欲的に興し、物理学・哲学、心理学・哲学、神学・哲学、音楽学・哲学、医学・哲学など、異分野への関心をもつ各分野のエキス パートが共通のテーマで集う場を形成した。
純物理学と純哲学の学際というと、通常想像しにくいものと思われやすい。実は私自身、1980年代末から90年代初めにかえウィーン大の哲学科講義でこれらの講座に出会ったときは非常な驚きであった。ことにハインテルの直系のH.-D.クライン (ウィーン大学教授、オーストリア学術院会員) の「物理学主義批判」の講義は新鮮であった。こうした哲学が可能である、という衝撃的な実感でもあった。以後十余年-。以下は私なりの学際研究への向き合い方である。
学際とは、Aの学とBの学、双方向の学がむきあう場である。ボーダーラインの領域において、同一の論題を共有しつつも他者の側から思いもかけぬ観点があり 論考の道が示される。たとえば、空間・時間とは何か。物理学と哲学では相互におおよそ異なる見解が示される。A,B相互が他者の観点へ転回して、既存の自 己の思考経路を他者の目で見る。既存の経路に固まった思考の境界線が破れて、脱構築し再生するチャンスである。<間>文化を標榜しながらも結 局既存の自己の思考のパターンから出ることはなく、A, B相互<間>の領域に足をのばしては断片的にむこうのものをとってきて、所々ずれた批判を行なったり折衷思考を行なったり、という例を私はた びたび欧州の研究者の中で見聞し、疑問を覚えてきた。他者の思考経路や視座を実体験することなしには真の<間>文化なく、真の<比 較>学もありえない。
無論のこと、物理学的見解と哲学的見解を唯単に並列して異同点を数えるような路線なら、この時代、コンピュータに問いを入力してyesか noか二者択一で答えを出して行く方が万人向きでてっとり早いであろう。が、人間の学の根源を探求するのが哲学なら、その手の情報知識伝達学で終わってい ては機械の代用品におちてしまう。認識論というのが往々にして、一連のデータを選んでは一見科学的な手法にのっとるかのような分析を行いつつ、肝心の「考 える人間、その認識と自覚とは何か」という大元の問いにはふれることなく終始していた時代があったように思う。<認識>の名のもとに演繹され た知識が、人間の生という根源的問題から切り離されての「分析の為の分析」になっていったとき、学問は細分化される。哲学は細分化された個々の領域の批判 のための批判となり、そこでは生きて動く人間社会を自覚し、生きる場そのものから人間全体を探求していく学(叡智を愛する精神)は忘れられて行く。ある意 味では細分化と専門化の極致まで到達したといえる二十世紀の学術だが、そこには新たな新生への手がかり・突破口はないのか。人間の生全体をみつめる広範、 かつ根源的な学は今世紀可能ではないのか。そうした悲願への理解者・共有者・実践者につどっていただき、今回の連続講座、「自然哲学と自然科学」が成立し た。
連続講座の内容は以下のとおり:第一回、ヴェルナー・ガブリエル(ウィーン大学哲学部哲学科)「中国哲学における自然観」。第二回、ハイモ・ホーフマイス ター(ハイデルベルク大学哲学科)「登山と神性への体験-自然への観照と自然の本質について」。第三回、ヘルベルト・ピッチュマン(ウィーン大学物理学部 理論物理学科、オーストリア学術院)「時間と空間-物理学と哲学の学際視座からの考察」。第四回、橋 ?(ウィーン大学哲学部哲学科)「量子力学における <間>の論理構造-新たな存在論へ」。第五回、フリードリヒ・ヴァルナー(ウィーン大学哲学部学術論理学科)、「<間>の医学 ― 命の活性化への芸術としての医術」。
 ガブリエルは中国哲学における「自然」概念そのものをとらえ、西洋哲学におけるnaturaと対峙させながら東アジアの思想における自然と人間の共生の ありかたを解き明かした。欧州文化では、naturaといった場合、人間と対峙するそれであり、あるいはdeus sive natura (神 即 自然)をそのままに表すものとして、自然は創造主、人間は造られたものという二元構造が根底にある。老子の「道法自然」(道徳経第25章)などをとりあ げ、対象論理として自然がとりあげられる西洋哲学、自然・人間の一体化で道の倫理が説かれる中国哲学の比較となった。
ホーフマイスターは自ら登山をよくする人である。山岳の空気にふれながらの心身の賦活、「見神経験と見神論」がテーマになった。自身の登山体験に基づく論考だけに、全身的な自覚を伴う認識である。
ピッチュマンは哲学・物理学双方にとっての最も基本的なカテゴリー、<時間・空間>をテーマとし、哲学のそれとは一線をわかちながら「物理学 ではこの点をどう考えるか」ということを明快なことばで解き明かす。ヘーゲルなら、空間を説く際にまず点と点の無数の連続と集積を呈示する。点の個別性、 断絶性が集積によって連続になり、個と多、個別と連続がヘーゲル風に<止揚>されて線になる。線の個別性と集積性が同様の思考経路で止揚され 面になる。平面の三方向性、そして立体性へというように各部でヘーゲル特有の論理展開で空間概念が形成されるのだが、物理学では<点の個別性と集積 性が止揚される>ことはありえない。点という物理的な事象と、多数の点が連続するという現象は元々別個のことがらで、別に両者を弁証法的に対立させ る必要はないからである。<点>と<線>は数学ではどこまでも同一たりえない異質の概念であるが、物理学では点が集まれば線に似 かよった形態が出現すると考える。物理学で空間という場合、少なくとも二個の異なる物体があって初めて空間という考えの発端が出てくる。が、まだそこには 長さの概念はない。二個の物体が接触しているのか、離れているのか。後者であるならどれくらい離れているか。光の信号を物体Aから送る。Aは光という情報 送信側の系でありBは受信側の系である。光が一秒間に約三十万kmで全方向に拡がる。送信地点と受信地点を直線で結んで分割していくところに物理学の「長 さ」と測定の概念が明確になる。光の信号をAからBに向けて放つ。地球近傍なら瞬時に信号が届く。銀河系宇宙から届く光なら、実は何万年も前に光源を出発 している。が、私たちは「何万年前」を絶対の「この今」に受信している。<時間>を認識するおもしろさは常に新鮮で奥が深い。このように学際 の話は発露して行った。ピッチュマンはハインテルの学際研究班創立の頃からのメンバーだけに、年輪を実感させる講話である。
私自身は、量子力学における諸問題、不確定性論理をはじめとする既存の物理学からは逸脱する諸般の論理構造につき論述した。物理学側には「観測・解釈問 題」で多様な論理が提出されている。最後まで量子力学に異議を唱え続けたアインシュタインとハイゼンベルクの論争、EPRパラドックスの内容に言及し、論 理学的に未解決な部分については学術論理の立場から批判点を提出した。現代でも、諸般の学術論理の根底におけるアリストテレス論理学の影響は根強い。諸学 の根源として、アリストテレスは物理学など自然科学系の人材にも少なからぬ影響を及ぼしている。プラトン批判を含みつつ大成したアリストテレスの「存在 論」(metaphysica) であり「自然学」(physica)だが、その論理の整合性をもって現代量子論を把握しようとする場合、諸般の問題が続出する。ここではアリストテレスか らプラトンに還り、ナーガールジュナの空の論理を呈示しつつ、存在・実在・認識ということへの再考を求めた。西洋哲学古来の<実体>概念と大 乗仏教における<空>の根源的な比較が今後も肝要であろう。
ヴァルナーは学術論理分野での俊才といえる。元々はポッパーらウィーン学団の流れをくむ最後の世代に師事したのだが、既存の分析哲学に限界を覚え、率先し て海外に出、中国医学などを筆頭に異文化との比較論理にとりくむようになった。医術ということそのもの、人体、生命ということへの見方の根本的な相違を、 西洋医学と中国医学を対比させて説く。人間の知が病原をつきとめ、人体そのものを<病原菌を駆除すべき対象>として扱うのか。自然という全体 の一端である人間が、本来の調和と心身自らの均衡を失って病んでいる。自ら自然のリズムを体得している医者(仁者)は、どのように手をほどこせば、病人を 自然本来のリズムに還していけるのか。人間の生命は生物学的な人体ではない。それ自身自ら呼吸し全体作用的に機能する命は、ヴィールス駆除の対象と考えら れてはならない。生命は芸術である。誰にとっても快いものである健康―それは、芸術的な自然調和の世界である。医学は学術というより生きる命を活かす芸術 といえる。中国医学そのものの視座に立って明らかな目で既存の西洋医学を見直したい。そうした方向にヴァルナーの講話は進展した。
学際分野というと、とかく一分野の知識が過重になって他方の分野への連関が手抜きになったり、双方向の知識が結局浅薄になってテーマが割れてしまうことが ある。学際に限らず、xx学・xx学派と名がつくところ、いずれの派にもつきもののように出てくるそれぞれの「傾き」があるものだが、そこを自覚して豊穣 な人間形成の学をめざすこと。それが現今の学際では肝要であろう。
周囲をみわたせば、青少年のそれを含めて年々凶悪化する犯罪など、人心の荒廃を露呈する昨今の社会事情がある。他方、今や戦後61年―。増大するエントロ ピーをかかえてもはや逆戻りはきかず、熱力学の法則そのままに深刻化する地球温暖化の環境問題をかかえて、諸学の根源である哲学は何ができるのか。解釈学 専科のための解釈、批判の為の批判の戦略学では学そのものが萎縮する。人間全体をしっかりと展望し、豊かな人間形成をめざして何らかを実践的に賦与した い。そうした無窮の道というべき学を私は志向したく思う。