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天と地と人の間で生態学から広がる世界

鷲谷いづみ著
『天と地と人の間で――生態学から広がる世界』
(岩波書店、2006年、146頁、1600円)
加藤美恵子

 鷲谷先生の最近の著書の書評を依頼されたとき、ややとまどいを感じた。専門外の者が書けるだろうかと思いつつ引き受けてしまい、鷲谷先生にその旨 をお話したところ即答で、「それではエッセイをお願いします」と言われたので少し安堵感をおぼえた。早速読んでみたところ非常に平易に綴られており、何故 今、生態系を見つめ考えなければならないのかということが、一般の人々にも十分伝えることが出来る一冊であると思った。ぜひ広範囲の方々に読んでいただ き、少しでも多くの人が問題意識(危機感)を持つようになることを期待したい。
 本書は雑誌「科学」に生態学者である著者と、ある天文学者が交互に5年以上30回に亘って連載したエッセイのうち何篇かを選んでエッセイ集として纏めた ものである。タイトルは「天と地と人の間で」であったが、このエッセイ集にも同じタイトルを選んでいる。「天と地と人」についてはそれぞれ深く研究されて いるが、現代ではその「間」を見つめること、その「間」を埋めることに大きな意味があり、また研究によってその「間」を埋めることは難しいが、エッセイな ら気楽にその「間」(社会との関係)の問題をとりあげることができるという理由からである。またこれからは地と人の間の科学を育てていかなければならない だろうと述べている。
 著者は保全生態学が専門であるが、保全生態学は生物多様性の保全、自然再生など社会的課題と関連させ、いわば社会との「間」をつなぐ重要な学問分野であ る。著者は「怒涛をうつ」といってもよいほど急速に進む生態系の不健全化に対する強い危機感を感じ、同時にその危機感がごく一部の人々にだけしか共有され ていないことへの、さらに強い危機感もあると述べている。
 本書は3章から成り、第一章で健全な生態系いわば「自然」の重要性について、第二章ではその生態系が人間活動によって破壊されてきたこと、及びその反作 用について、第三章はこのままでは生態系がどうなっていくのか、生態系の未来について予測し、悪化する環境に対する対策の検討などが多くの例をあげて綴ら れている。
 以下に各章で述べられていることの一部を簡単に紹介するが、出来るだけ著者の意図するところを正しく伝えるために著者の表現をそのまま用いるように心掛けた。

第1章  自然の深さ 「太陽の光と健全な土で育った野菜を食べたい」(著者)
健全な生態系はそれぞれ自然の恵みや多様なサービスをもたらしてくれる。健全な土のもつ水の浄化力(化学的などんな方法にも勝る)や生態系ネットワークに よる総合的な病害虫に対する防除力(病害虫への抵抗性を強化した遺伝子組み換え作物は、生態系を破壊する恐れがある)、その他多くの機能を持っている。森 林浴もさることながら水辺の生態系(澄んだ水に沈水植物などの水草がゆらぐ水辺)は我々に、ここちよさ、爽快感、安らぎを与えてくれる。
しかし現在これらの豊かな自然は人間活動のインパクトにより健全な状態から人間活動に困難をもたらす不健全な状態へとシフトしている。例えば農地や都市化 における土壌汚染により、多彩な微小生物が棲む土というシステムによる機能が失われつつある。また富栄養化や外来魚の増加により淡水生態系が不健全な状態 へとシフトしている。このようなシフトの最も目立つのが淡水生態系であり、そのメカニズムについて詳しく述べられている。
「水草の揺らめく透明な水があちこちに保たれれば、都市もそれほど居心地の悪くない場所になるに違いない」(著者)。
第2章  人が自然をかえるとき
 大規模な開発により多くの様々な生態系が破壊され、多くの生物種が絶滅に追いやられた。例えば
生物たちの宝庫であり日本古来の自然な姿である里山は、その多くが開発で急速に失われてしまった。また多くの野生生物の生息・生育場所が極度に分断・孤立 化され、さらに環境の悪化、外来生物の影響などにより個体群が著しく縮小したため、野生生物が温暖化に抗して存続し続けるのは難しそうである(理由は本文 に詳しく書かれている)。そのため温暖化は他の要因と相加的、相乗的に作用しながら種の絶滅を大幅に加速すると予測される。レッドデータブックには少し前 までの「身近な」動植物が多く掲載されているが、これはここ数10年間の人間の活動がもたらした帰結である。ここを読んで京都議定書の意味と重みを再認識 させられた。一方現在クマが頻繁に人里へ出てきては害を及ぼしているが、クマの棲みやすい森がなくなってきているためである。クマだけでなく他の生物に とっても餌に恵まれた森を再生すれば人も利用可能な森となり、「生物多様性」の再現にもなる。
 外来植物の侵入も「開発」と同じ効果をもたらす可能性があると思う。特に侵略的外来種(定着して在来種の生存や生活を脅かし、生態系を変えてしまう外来 生物)は生態系、生物多様性などに大きな影響を与える。最近外来種問題として社会的な関心を呼んでおり、侵略的外来生物への対策の必要性がようやく認識さ れ、2004年に法律が成立した。しかし特別外来生物を政令で指定するための選定となると、生態系への深刻な影響がすでに現われているような種、とりわけ 植物の主要な外来種は一種も含められなかった。科学は完全に無視されたようである。
実際の場面では科学はまだまだ経済や政治その他に隷属させられてしまっている。これでは環境の危機はますます深まり、環境面での持続可能性の確保はおぼつかないであろうと述べ、環境面での科学の地位を高めなければならないとしている。
 あらゆる自然の恵みを持続的に享受するためには、自然の豊かさを絶やしてはいけない。これには
生態学的な知識が必要なのである。
第3章 生態系の未来
 日本古来の姿である生き物の豊かな田んぼや里山を取り戻さなければならない。生き物のにぎわいのある田んぼであれば、当然そこには消費者が安心して口に することができる農作物が育つはずである。田んぼの生き物のにぎわいは食の安心への保証でもあると著者は言い切っている。しかし現在では遺伝子組み換え作 物、遺伝子組み換え生物農薬、遺伝子組み換え微生物などの研究(研究費の主要な投入先)が主流をなし、生態系としての田んぼや生き物のにぎわいを保ちつ つ、効率よく作物をつくる技術の研究に取り組んでいる研究者はごくわずかである。このまま進んでいった場合農業の将来はどうなっていくのだろうか。著者が 描いた農業の将来像が記されている。そして「研究投資が向けられている方向と健全な生態系や食の安全・安心をのぞむ国民の願いとの間にあまりにも大きな乖 離がある、と感じているのは私だけだろうか」と結んでいる。ここを読んでいたら「沈黙の春」が思い浮かんだ。農薬を遺伝子組み換え生物に置き換えて考える と寒い未来がそこにあった。
農業の環境への負荷に対する研究や具体的政策を充実させなければならない。英国では充実しつつあるが日本では相当遅れをとっている。遺伝子組み換えやそれ に類するテクノロジーの偏重ゆえに農業の研究と環境保全との間に大きな溝が生じているのが日本の現状である。遺伝子組み換えの花粉症緩和米の開発や化学肥 料投入がもたらす富栄養化解消の目的でリン酸吸収能力を高めた植物の開発研究などを例にあげ、それぞれに対し生態学の立場から詳しく鋭い意見が述べられて いる。そして「社会的、総合的な方策によらなければ根本的には解決できない問題に対して、遺伝子操作によってアプローチしようとするのは得策ではないどこ ろか無謀とさえいえる」と指摘した。
 温暖化に伴う気候変動が人類社会に及ぼす影響については近未来の問題として最も重要である。すでに気候変動に起因する異常気象による災害が世界各地で頻 発している。科学者たちは気候変動による諸現象の解明や影響の予測に加えて、被害を回避・軽減するための具体的な対策を検討しなければならないと断言して いる。ここでは京都議定書の話題、気候変動の予測と対策、二酸化炭素の増加と生態系、人類の生活環境の未来像と生き甲斐などについて取り上げ、著者の忌憚 の無い意見が述べられている。また各所にみられる歯切れの良い分析には魅了された。
 「環境の問題に適切に対処するということは、ヒトとヒトとの間の不公平さの軽減においては、経済的な課題以上に重要なのではないだろうか」(著者)

 以上ごく一部を紹介したに過ぎないが、これ以外にも各章でさまざまな問題が取り上げられており、それぞれについての詳しい説明やコメントが述べられてい る。環境の悪化に伴う生態系の破壊(不健全化)が人間の活動を困難にし、またその原因は人間の活動に起因しているのだということを強く認識させられる内容 である。
開発の名のもとに人々は多くの生態系を何のためらいもなく破壊し、生物の多様性を激減させ、又多くの生物種を絶滅に追いやってきた。このことが我々人間の 生活とどんな関係があるのだろうかと思う人が多いように思われるが、その重大さを本書を通して知ってもらいたい。地球は人間だけの物ではなくまた人間だけ では生きられないのである。
 著者は広く国内外にアンテナを張り巡らし、あらゆる情報をキャッチして科学者の立場からそれを処理し、発信している。まさに「地と人の間」の領域の研究者にふさわしい大きな存在感を覚えた。これからのますますの活躍を期待したい。
最後に本書を読む際に1章から2章、3章へと順に読み進めてもらいたい。しかし各章の中では節ごとに完全に独立しているので、好きな項目から読むことができる。

目次
はじめに
日曜日には地下鉄でなく世田谷線
1 自然の深さ
 土の力
 マルハナバチの巣が終わるとき
 都市の水辺と生態系の健全性
 生き物のにぎわいを利用する「戦略」
シェリーと黒豆とダーウィンと
2 人が自然を変えるとき
 地雷の上の愛知万博
 尾瀬とシカ
 早まる春と速まる絶滅
 初日への祈り
 クマの棲める森
 暴かれたエイリアンの強さの秘密
 里魚の受難からの教訓
 花粉症シリーズ到来
 大豆輸入がもたらす生態系の荒廃
 軽視される科学 -特定外来生物の政令指定
アルバム『さくらそう』
3 生態系の未来
 田んぼの生き物の未来
 農業の研究と環境保全との間の溝
 危うい食物連鎖
 冷たい流血の近未来シナリオ
 気候シフトと順応策
 天の夢と地の恐れ -人が未来に光をみいだすために
現場の教育力を活かす実習
おわりに