「地球文明の未来」
伊東俊太郎
それでは私に与えられている今大会の三番目の講演題目として「地球文明の未来」という問題に入ります。
ところで、その前にこの「文明と文化の違い」、あるいは「関係」ですね。これをまず問題にしたいと思うんです。この次に文化の問題が出てきて、「文化シス
テム」とか言われますが、この「文明システムと文化システム」というのはどう違うのか、という事をまず問題にしなければいけないかと思います。この「文明
と文化」の区別と関係ですが、これには定説があるわけではないので、あくまでも私自身の考えるところのものであります。その事をまず申し上げておきます。
この「文明と文化」の区別を、まず通時的に考えてみる。通時的というのは、diachronicということですね。時間の系列を追ってということですが。
このdiachronicに区別するということが一つあります。私の考えでは「人類の歴史」というのは、人類が成立する「人類革命」、それから農業が開始
される「農業革命」、それから都市が発生してくる「都市革命」、それにいろいろな思想や普遍宗教があらわれてくる「精神革命」、それから17世紀の近代科
学が成立してくる「科学革命」、
-この延長線上に、18世紀末から19世紀にかけての「産業革命」と、それから今日の「情報革命」があるわけですが、この二つのものの起源は17世紀の
「科学革命」にあったと考えております。この人類史の五つの大変革期「人類革命」、「農業革命」、「都市革命」、「精神革命」、「科学革命」を経て、今ま
た私は第六番目の「環境革命」という時代に入っていると思うんです。ところでこの「都市革命」以後のものを「文明」と考える。そうして、「文化」というの
は人類がもう始まった時から出来上がっているとする。これは石器のコンプレックスやなんかがありますよね。それを例えば「人類革命」の時代にできた石器の
集合体に対して、「オルドヴァイ文化」とか、「アシュール文化」とかすでに「文化」という名が与えられている。しかし都市文明が成立すると、それからは
「メソポタミア文明」「インダス文明」、皆これらは「文明」ですね。ですから結局、文明というのは、人間の文化が発展していって、ある段階に達して大きな
変貌を遂げた、つまり、都市文明の成立以後が文明なんだとする。これは通時的な考え方ですね。こういうふうに文明と文化を区別すると、この二つは続いてい
るわけですね。これは大体、文化人類学者が考えていることじゃないでしょうか。文化人類学者が文明を問題にする時、こんな考え方でだいたいやっているよう
に思います。しかしですね、最近ではこういう「都市文明」以前の狩猟採集、漁労、あるいは農耕の段階もですね、文明という名で呼んでいいじゃないかという
考えも、ずいぶん盛んになりました。そして先ほどの安田先生なんかもそうですよね。ですから「縄文文明」という言い方をされていますね。
civilizationと言うのは、確かに「都市化」と言う意味ですね、civilという言葉が入っていますから。文明というのはこの
civilizationの訳だと言われているから、先ほどのような定義が出てくるわけだけれども、何も日本語の文明というのはcivilization
の訳語でなくてもいいわけです。civilizationを「文明」と訳したのは福沢諭吉がたまたまやっただけの話。日本語で文明というのは、独立に考え
たっていいわけですから、安田先生のように ─ また、梅棹先生もそういう使い方をされているかも知れませんが ─
そういう使い方があってもいいわけだと思います。そうすると「文明」と「文化」というものはですね、通時的と言うんじゃなくて、時代は同じで並存してい
る。じゃあどういうふうに違うんだという事になるわけです。つまり、「文明」と「文化」の共時的関係、synchronicな関係はどういうものなのだろ
う。このように共時的に考えた時には、どういうふうに区別したらいいのかということになるので、それから文明と文化の関係を見直すということも考えてみな
ければいけない。そこでそれについて私の考え方は、今ちょっとここに図をかいてみますが、ある一定地域における人間集団の生活、それを「生活圏」と名づけ
ましょう。その生活圏の内部の芯のところにですね、その人間生活を文化的に特徴づける「エートス」というものがあって、それは観念形態であったり、価値感
情であったりする。この内核を「文化」と名づける。これに対して「文明」というのはどういうものかというと、この内核の文化によって作り出され運用され
る。一定の「制度」(institution)、「組織」(organization)、それからまた「装置」(apparatus)が出来上がってきま
すが、これを「文明」と名づけよう。こういうふうに考えていいのではないかと思います。そしてもうひとつ付け加えておくと、生活圏のなかで文明と文化はこ
ういう区別しますが、この生活圏全体を広い意味での文明と言ってよいと思います。それは広い意味での文明ですね。そこでは文明はこの文化を含み、基底にそ
のエートスをもっている。それを詳しく分けていうと今いったような二重構造になっている。「内核」と「外殻」と言ったようにです。これをもう少しわかりや
すく具体的に言えば、「内核」の観念形態とは、哲学なんかがこれですよね。それから宗教もそうです。それからまた芸術など、それが「内核」として文化なん
です。それでは文明の方はどうかと言えば、この外殻の「制度」といったものは一体何かというと、具体的にまず科学技術です。この科学技術というのは、また
一定の「装置」ですよね。文明の装置です。そしてその他に、「政治制度」、「経済組織」といったものも文明です。「法律体系」も外殻としての文明です。し
かし注意すべきはですね、この「文化」の内核と「文明」の外殻との間には相互作用があるということなんです。相互作用がありまして、こういう「文化」の内
核の「エートス」でもって「文明」の外殻の色々な制度がつくられているわけなんです。逆にその外殻の「文明」制度が変換させられると、中身の内核の「文
化」もある程度変わることがある。このような相互作用(interaction)がこの間にあるということを考えねばならないですね。「文化」と「文明」
こういうふうに分けたけれども、この両者のダイナミックな連関も考えなければいけない。例えば近代科学というものは、「文明」の制度になっていると、こう
言ったけれども、この近代科学が出来上がった17世紀の「科学革命」は、まさに17世紀のヨーロッパの「エートス」、「観念形態」を背景として出来上がっ
てきたわけです。だからこの近代科学が立ち上ってくるところを考えると、深くその時代のヨーロッパの「文化」に関わっているわけです。近代科学は、17世
紀のこのヨーロッパの「エートス」に深く関わっているわけです。従ってこの外殻の「文明」と内核の「文化」を機械的には分けられない。両者の動的な相互連
関にも注目する必要があるわけです。これが第一番目の論点です。つまり、「文化」と「文明」の関連ですね。
さて二番目は、まさに今日の「地球文明の未来」の問題です。さてこれまで述べてきた「文明圏」というものが成立したとして、それがいろんな所に歴史を通じ
て24ぐらい出来て栄枯盛衰をくりかえして今日にいたっています。まず「メソポタミア文明圏」がありましたね。それから「エジプトの文明圏」、「中国文明
圏」、「インド文明圏」、「ギリシア文明圏」などなどです。そしてそれらの間は相互作用があり、影響を及ぼしあう。このような文明圏は交流することによっ
て、相互に影響を及ぼし、そこに一種の「文明移転」とか「文明共有」とかという現象が生ずる。これは私が最近しきりに強調しているような「文明交流圏」の
考え方なんです。これがたくさん出来るわけですね。それらの「文明圏」が相互作用を及ぼし交流し、この相互作用がだんだん地球大に広がっていきます。そし
てそこにやがて未来に出来上がるであろうものが「地球文明」なんですね。この地球文明とは、まさにこれなんですね。つまりさまざまな文明の外殻がすり合わ
されて、その文明の装置を交換する、または移転させる。たとえば科学技術なんてどんどん移転しているでしょう。また経済も地球化(グローバリゼーション)
しています。そういうような科学技術や経済組織など、そういう文明の装置が共有されている。そうしてそれを共通化していくということが起こっていますよ
ね。だけどここで注意すべきことは、そういうふうにして「地球文明」という共通性が形成されはするけれども、その文明圏の核ですね、つまり「文化」の内核
ですね、それは同じになるわけじゃないです。同じにならない。イスラム文明圏ならイスラム文化のこの核があります。中国文明にもその文化の核がある。また
ヨーロッパ文明にも日本文明にもある。だから結局、その文明交流というのはですね、その自身の固有性、その文化的な固有性を保持しながら、かつ文明の装置
を共通化していくということなんですよ。皆、地球が一色になっちゃうことではないわけです。このように文明装置をシェアリングということが起こるんです
が、しかしその内部的文化まで同じになってしまうわけじゃない。その固有性は保持される。だから「文明の共有性」と、「文化の固有性」というのは並立する
という事が私の言いたいメッセージなんです。この事を十分認識しないと、ハンチントンのようになってしまう。ハンチントンは「文明」と「文化」の区別をし
ていませんよね。つまり文化は文明の小さい形だと言って、本質的な区別はないと言っているんです。そうすると文化というのは一緒にならない。一緒にならな
ければ、結局文明は衝突する─というあのテーゼにゆきつくわけです。そうじゃない。地球は共通文明というものに近づきながらですね、しかし同時の文化の固
有性、多様性を保持することが可能なんですね。可能なばかりか必要なんです、そしてそれがまた実態なんですね。世界の現状はそうなんです。それを見逃して
はいけない。何かグローバリゼーションで世界が一色になっちゃうような、幻想にとらわれてはいけない。アメリカ的なグローバリズムにのってですね。アメリ
カはそうしたがっているかも知れないけれども、そんなふうには事実ならないですね。ならないことが人類の幸福です。だからいろいろな文明圏の文化の多様化
が保持されながら文明の装置が互にシェアされてゆく─そういう未来図を私は描きたいわけです。これが私のハンチントン批判の根本にもなるわけですね。さ
て、そこでもう一つ言わなければいけない事があります。外殻となっている文明の装置を共通化しながら文化の多様性は保持されると、こう申しましたね。だけ
ど文明間に相互作用があるように、つまりcross-civilizationalな相互作用、「文明間相互作用」とともにもう一つ、intra-
civilizational
な相互作用、「文明内相互作用」というのがあるんです。ある一つの文明圏の中でですね、この文明と文化の絶えざる動的な関係というもの、相互作用というの
があるんです。文明の装置を共通化すると言ってもですね、すべての装置が共通化されるわけじゃないです。あくまでもその一部ですよね。ですからこの文化の
固有性というのは決してなくならないわけですが、それのみならず、その移入された文明の装置もこの内的な文化の核によって運用されますから、従ってまたそ
の文明は固有な形態をとってくると思います。ですからやはり多様な文明が、この地球文明の中にも存在するのですね、その多様な文明というのは、実はこの文
化の多様性を反映しているわけです、文明の共通性を増しながらもですね、やはり文化の多様性は確実に残る、そういうふうに思うんですね。決して地球全体が
一色のモノクロームなものになってしまうのではありません。そこで三番目の問題です。三番目はどういうことかと言うと、そのことを前提した上でですね、ま
さにこの多様な地球システム、この文明システムの倫理という問題です。まさにこの会議が掲げているその問題に入ろうと思います。それではそういう地球シス
テムの文明倫理ですね、どんな倫理がそこで必要なんでしょうか、どんな原則が守られなきゃいけないのでしょうか。それはいろいろありますが、ここで私がま
ず申し上げたいのは、civilizational
minimumということです。つまり地球の各々の文明が文明であるために、まずこれだけは守られなければならない原則があるだろうということです。それ
をcivilizational
minimumと名付けます。地球システムの倫理規範にはいろいろなものが考えられると思うんですが、それをまさにこれから研究していくのが、この学会の
目的ですから、それは今後活発な論議の対象となるでしょう。だけどここで私が申し上げるのは、その原則中の中のまたその原則ですね。それを
civilizational
minimumと名付けているんです。こうした未来の地球文明社会において、守られるべき倫理原則は一体何なのか。その原則中の原則とも言うべきもの、
civilizational
minimumのまず第一としては、アヒンサー(ahims..)ということですね。アヒンサー、「殺すなかれ」です。つまり暴力的な行為を、文明間の暴
力的な行為をやめよ。文明の名において人を殺すことを絶対にやってはいけない、これが第一原則です。殺戮を行う、文明の名における殺戮。これは今でも行わ
れていますね。今のイラク戦争、これを文明の為の戦いだというふうに誰かが言ったけれども、とんでもない考え方ですね。人を殺すのは文明じゃない。それは
まさに野蛮です。文明の対極にあるものなんですよね。それでこの殺すなかれ、というこの原則を今までいろいろな宗教が言い続けたじゃないですか。でもそれ
が全然守られていない、こんなに守られてない原則はない。ひどいと言わざるを得ません。だから殺戮を行うものは文明であるどころか、徹底的に野蛮である。
だからこのアヒンサーというガンジーの言った言葉は、これから地球文明の倫理形成の中核をなすものとしなければならないcivilization
minimumの第1条です。第二番目は何かというと、これはコヴィヴェンス(co-vivence)です。コヴィヴェンスとは一体何かと辞書を引いてみ
ても多分ないでしょう。私が作った言葉だから出てないというわけです。これ「共生」なんです、日本語で言うと、何のことはない。だけど向こうには、それを
表わす言葉がない。だからsymbiosisなんていう言葉を使う。だけどsymbiosisは生物的な共生でね、ちょっと文明的な共生で使うのにはまず
い。誤解を生じさせる惧れがある。convivialityという言葉もありますが、これは飲みくいを一緒にする宴会気分のことをさすので、我々の言って
いる「共生」の意味とはずれています。「共生」は日本語で英語にはなく、そもそもこういう概念がないのですから、その意味の言葉をつくらねばなりません。
coというのは一緒にという意味です。vivenceというのはvivo「いきる」というラテン語の動詞の現在分詞からviventiaという名詞を引き
出してきて、これにcoをつけてco-viventia(一緒に生きる)ことというラテン語の抽象名詞をつくると、これからコヴィヴェンス(co-
vivence)という英語が出てくるわけです。この「共生」ということが二番目の地球倫理の原則です。異なる文明の存在を認めるという以上に、その異質
性を喜ぶということです。「異なるもの」を認めてやるというのではない。そうじゃなくてですね、他者の存在、自分とは異なった他者の存在により、自分の在
り方そのものがより広いもの、大きなもの、普遍的なものになり得る可能性が与えられる。その意味で他の異質的なものとの共存が貴重なのであり、喜びであ
る。みんなが同じだったら、面白くない。それではモノクロームで発展がないんですね、味気ない世界になるだろうと思います。だから「異なることは良いこと
だ」で、だから一緒にやろうと。これが「共生」だと思うんですね。だから「同じになる」または「同じにする」というんじゃなくて、相互作用を通してそれぞ
れにより良くなろうと、そういうことなんですよ。まだもう一つ残っているんですが、ここでちょっと、「文明のエントロピー」ともいうべきものを考えてもい
いかも知れない。いま宇宙の歴史をやっているのですけれども、宇宙の歴史を通じて多様性というものが出てきますね。まあ生物の多様性そうですけれども。ど
うしてそれ多様化するかと言うと、環境との相互作用によりエントロピーの減少させているわけです。だから一様にならない、環境との相互作用のないところで
はエントロピーはただ増大していって、皆同じようになってしまう。そうさせないために、そこに地球の多様性をつくり出してゆくには環境との相互作用という
ものが実に重要なんです。この文明の多様性にも、環境というのがすごく重要なんです。だから文明の多様性と言うのは、結局風土というものにやはり結び付く
でしょうね。それから第三番目。equitability、日本語で表わすと「衡平」。さまざまな文明がただ共存するというだけじゃない。共存共生は必要
です。だけどそれだけにとどまらない。その間の格差というものがある。地球上には経済的、人種的、性的な格差等々があります。そういうものをできるだけ少
しでもなくしていかなければならない。これ一挙に同じというわけにはいかない。だからequalityとは違うんですけれども。同じということにはならな
いけれども、それを小さくしていかなければならない。これがequitabilityで、これには、cross-civilizationalと
intra-civilizationalの両方がある。cross-civilizational
な格差というのは何かと言うと、たとえばヨーロッパ文明とアフリカ文明の間には格差がある。経済的格差がありますよね、これをやはりそのまましておくとい
うのは良くない、衡平、その差を下げていかなきゃいけない。それから人種的な格差もあるかもしれない。intraな格差と言っているのは、例えばイスラム
圏というのを一つとってみると、そのイスラムの文明圏の中には、男性と女性との間にすごい格差がまだあると思いますね。これは、そういうものに対して全
く、無関心になってしまうというのじゃなく、それをやはり少なくしていく。それで、地球全体を良くしていくということに、我々努めなければならないと思い
ます。その他、色々なことが考えられると思うんですけれども、今日はこれでちょうど時間が来たみたいですね。ですから地球システムの倫理の原則中の原則と
してcivilizational
minimumの三つがあります。それは「不殺生」(アヒンサー)と「共生」(コヴィヴェンス)と「衡平」(エクィタビリティ)です。もっとこういったこ
とをこの学会においていろいろと具体的に先へ進めていく。そして地球的問題、より良き地球という、人類の生存だけじゃない、鷲谷先生や安田先生のおっ
しゃったこの地球上の生きとし生ける物をも支えてゆくテーマを、皆さんで考えてゆこうではありませんか。どうもありがとうございました。
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